私たちは、苦しんでいるとき、それが世界のすべてだと感じることもあります。
ときに起こっていることの流れに翻弄され、巻き込まれ、その中でもがくことに精いっぱいでいると、自分の無力さに立ち上がれない思いさえすることもあるでしょう。
でも、ふと気がついて立ってみたら、足が底についた、という経験もまたあるかもしれませんね。
人間とは不思議な生き物で、苦しんだり、悲しんだり、怒ったり、閉じこもったり、いろいろとするのですが、ときどき、人がそのようにしているのを見るときには、なぜその人がそれほど苦しんでいるのか、よく理解できないときもあります。
和尚アートユニティで毎年ワークショップを行っているラハシャに、あるとき、私が悩んでいることについて話したことがあります。
彼の反応は、「ジューシーな物語だね!」
でした。
そう、「物語」。
私たちは、もしかしたら自分が創り出した物語を生きているのかもしれません。
そしてその物語は、どちらかというと暗かったり、重かったり、つらかったり、メラメラと燃えていたり!
OSHOがかつて、弟子たちの悩みに答えるときに、「私は内側でクスクスと笑っているのだが、それは見せないようにしている。あなたたちは気を悪くするだろうからね」(引用ではなく、記憶です)という趣旨のことを言っているのを読んだことがあります。
マインドは、映写機のようだとも言われます。
私たちは起こっていることを知覚するときに、ただ写真のように知覚するのではありません。
外側で起こっていることに、自分で用意した映写機を使って、自分の解釈を投影しているのです。
そしてその映像を見ては、外側で客観的に起こっていることだと確信して、怒り、喜び、悲しみます。
それだけでなく、それをもとにして行動するので、人を傷つけたり、あるいは人間関係がうまくいかなくなったり、生きていることが重荷になったりします。
この映写機のフィルムがあまりに近く、自分の顔にくっついていると、それが映画だとは思えません。そして冒頭に書いたように、奔流に飲み込まれておぼれてしまいます。
瞑想とは、このフィルムと少しずつ距離をもつことができるようになることだ、と言っても良いかもしれません。
すると、人の苦しみを見て、そこまで苦しまなくて良いのにと、思うように、自分の苦しみもまたそこまで深刻でないのかもしれないと思えるようになってきます。
その経験をとても楽にさせてくれるのが、ハートです。
ハート瞑想は、私たちをマインドの映写機から離してくれます。
ハートからものごとを見るとき、それはマインドのフィルムを通して見たのとは全く違うように見えるかもしれません。
ハートはマインドを通したジャッジをしません。つまり映写機の投影が起こらないのです。
そこからものごとを見てみると、自分が思っていたこととは全く違うものだと気づくかもしれません。
マインドの映写機とそのフィルムから自由になることで、今までになかった自由が手に入ります。
リアクションではなく、本当に起こっていることに応答することができるようになります。
すると、自分の周りの世界が自分を苦しめるものではなく、自分が生きて自分の喜びを描くことができるキャンバスのように感じ始めます。
9月の終わりと10月のはじめの日曜日を2回使って、尾崎智子さん(ブーティ)と市場義人(トーショー)が、このことを一緒に経験するためのオンラインワークショップを開きます。
去年も二人で行い好評を得た、「悟りのシンクロニシティ」ワンディシリーズとして、新たに生み出されるもので、全体としてのタイトルは、「マインドの制限からハートの自由へ」です。
それぞれのワンディワークショップは、以下の通りです。
「自由への鍵」
9月26日(日)10時~17時(間に1時間のランチタイム。また適宜休憩をはさみます)
定員:25名
講師:尾崎智子(ブーティ)・市場義人(トーショー)
詳細・お申し込みはこちらから
「信頼という翼」
10月3日(日)10時~17時(間に1時間のランチタイム。また適宜休憩をはさみます)
定員:25名
講師:尾崎智子(ブーティ)・市場義人(トーショー)
詳細・お申し込みはこちらから
市場義人(トーショー)https://www.inner-blossoming.com/
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