リーラ、なぜ私は悲しくないのでしょう?

先日、私の瞑想の先生であり、もしかしたら

友人と呼んでも許されるかもしれないリーラ

が亡くなりました。

 

私がリーラを知ったのは、30年も前になります。

 

彼女はその頃からハートの人として有名で、

たくさんの人がリーラを通じて瞑想に目覚め、

またリーラの先生であるOSHOのもとに行きま

した。

 

当時東京でリーラのグループに通訳として入り、

初めてハートに意識を向ける瞑想をして3日間を

過ごし、新鮮さと喜びを感じました。

 

そのあと、インドのプネーで通訳として、また

参加者として、何度も彼女が作り出す愛と明る

さ、それに人に対する共感に満ちたスペースの

中でそのままの自分を受け入れてもらっている

ように感じられました。

 

リーラは一人一人のもつユニークさを大切にし、

私たちをそのまま人間として愛してくれました。

 

私たちに起こる小さな出来事にも気を向け、一

緒に喜んだり、悲しんだりしてくれました。

 

私が新しいセラピーの方法を学び始めた時には、

あなたがそれをやるのはとても良いことだ、と

言って、セッションの実験台になってくれたこ

ともあります。

 

私の父が亡くなったのは23年前ですが、それか

らすぐに名古屋で行われたリーラのグループに

参加することができました。その中でパートナ

ーがハートから、そこにいない誰かとつながる

ハート電話になるエクササイズがありました。

 

自分にとって大切な人を選んでハート電話を通

して話をする、という内容でした。

 

ハートに入ると、その中心を通して遠くにいる

人とつながることができるのです。

 

そしてハート電話の役をしている人は透明にな

って、その人の代わりに感じ、その人の代わり

に話すことができるのです、

 

参加者はハートから本質的な話をしたい人を選

びました。普段本当に気持ちを聞けなかったり、

素直になれない相手を選ぶこともできたし、も

う亡くなっている人でも構わないということで

した。

 

私は父親を選び、パートナーのハートを通して、

聞きたかったことを聞けたように感じたのを覚

えています。自分もまた父親に言えていなかっ

たことを言うことができたのだったと思います。

 

たくさんの涙が流れ、心が晴れました。

 

父親は肉体としてはもういないのに、本当に父

親と話をすることができたように感じました。

 

ハートのスペースには時間の制限も空間の制限

もないと言います。

 

その可能性を感じた最初の経験でした。

 

ユニティインスティチュートのプログラムに参

加するようになってから、再びリーラやプラサ

ードと接するようになり、たくさんの愛をもら

いました。

 

リーラはもともとサイキックとして有名で、俗

に言う「見える人」でした。それで、昔は自分

が全部見透かされてしまうのではないかと思っ

たこともありましたが、彼女が見ていたのは、

一人一人の美しさでした。

 

ある時、グループの中で、「あなた方は、自分

がどれほど美しいか知らないのです。そして自

分がダメな人間だと思って自分を責めたり、自

信を持てないでいたりします。私が見ている皆

さんの姿を、もし皆さん自身が見ることができ

たら、どんなに良いでしょう!」と涙ながらに

話してくれたことがあります。

 

リーラは私が心から大好きで信頼した人でした。

 

おこがましい言い方ですが、自分の傾向に一番

ぴったりと合っている人だと感じてきました。

 

リーラ自身にも「私とあなたはもちろん全然レ

ベルが違うけれど、とても似ているところがあ

って、あなたの言うことや感じることに私は、

他のどの人に対するよりも一番共感するのです」

と言ったことがあります。

 

彼女は「分かっているわよ」と、ただただ自然

に答えてくれました。

 

個人としてのたくさんの出会いがありました。

 

その1つ1つが意味を持ち、私がハートの道を

歩くのが自然なことであるのを教えてくれました。

 

***

 

そのリーラがもういないのです。

 

それでも不思議なことに私は悲しくありません。

 

***

 

リーラが非常に稀な進行性のガンに冒されていて、

手術をしなければ長く生きられないと聞いたのは

8月末のことでした。

 

リーラは生きるためにあらゆる努力をすると、ユ

ニティインスティチュートを通じてメッセージを

くれ、その言葉通りにすぐに手術を受けました。

 

リーラの手術の日、私は京都から東京行きの夜行

バスに乗っていました。朝の5時が手術開始の時間

でした。その時間にリーラにチューニングを合わせ

てみると、ただただ広大なスペースの中に入って行

きました。

 

そのスペースの中で癒されたのは私でした。

 

その後リハビリをしていると人づてに聞いたので、

良かったと思い、来年はアメリカに会いに行こうと

思っていました。

 

それから1ヶ月して、リーラが亡くなったとの知ら

せは、アメリカのセドナに住む友人から受け取りま

した。

 

10月1日、私は岩国でハート瞑想のグループをしてい

ました。

 

ハート瞑想はリーラ、プラサード、アルヴィナから

教えてもらった、私の瞑想の中心にあるものです。

 

それをシェアしている時に、知らせがあったのです。

 

自然に、グループの中で参加している皆さんと一緒

にリーラにチューニングを合わせました。

 

皆さんはリーラに会ったことはないのですが、皆そ

れぞれの美しい経験をしました。私も満たされた思

いでした。

 

グループが終わり、新幹線に乗るために新岩国の駅

に着き、数段の短い階段を上っている時に、不意に

リーラの愛を感じ、満たされました。リーラが話し

かけてくれたようでした。

 

そのあと、リーラが亡くなったというのは誤報だと

の知らせが入り、とても喜んだのですが、同時に自

分が感じたリーラの愛は思い過ごしだったのかなと

も思いました。

 

結局は誤報ではなかったことが分かり、自分の中で

どう感じて良いのか、混乱が残ったのもあるのです

が、リーラがもう肉体にいないことを考えてもあま

り悲しくなりません。

 

僕があれほど信頼し、大好きだったはずの人が亡く

なったのに、なぜ悲しくないのだろう、と訝り、自

分は薄情なのかなと心の片隅で思ったりもしました

が、どうもそうではないようです。

 

それというのも、リーラは今まで以上に私の中で生

きているのです。

 

それは彼女が残してくれたものとか、思い出とかの

類ではありません。

 

今も書きながら、時々気持ちを向けると彼女が、自

分より大きな存在として一緒にいるような感じがし

ます。

 

そしてそれは、例えば自分の親や身近な人が亡くな

ったあと、その人が一緒にいてくれる、という感覚

とも違うのです。

 

親のように、近くにいると感じることが自然である

ほど近い関係ではなかったし、それほど頼っていた

わけでもありません。

 

リーラは、ハートの中心には時間の制限も空間の制

限もないと最初に教えてくれた人でした。

 

そしてサトルボディヒーリングやELCを通してハート

に入る時、いつもハートの中心のスペースにつながり、

リーラとつながり、プラサードとつながり、アルヴィ

ナとつながって、彼らの知恵につながってからセッシ

ョンをしてきました。

 

手術の日、自分にできる限りのヒーリングをしようと

思い、バスの中でリーラにチューニングを合わせた時、

癒されたのは私の方でした。

 

新岩国の駅でリーラの愛を感じました。

 

ユニティインスティチュートのガタサンサがフェイス

ブックにあげてくれた、リーラのハート瞑想の声が聞

ける動画でハート瞑想をしてみると、今までにないく

らいに、満ち、リーラの存在を感じました。

 

その時、リーラに「リーラ、なぜ私はあなたがいなく

なったのに、悲しくないのですか?」と思わず尋ねて

いました。

 

リーラの答えが聞こえたわけではありませんが、動画

から流れるリーラの声を聞きながら、自分にとってそ

の答えは確かなものでした。

 

今自分は、リーラとともにいる感じが強くしているの

です。

 

それ以上にリーラは私に溶け込んでいるようにも感じ

ます。

 

喪失感よりも満たされた感じが強いのです。

 

瞑想の目的は、死が存在しないことを知ることである

と言います。

 

一生をかけて瞑想に打ちこみ、瞑想を多くの人とシェ

アすることに情熱を傾けてきたリーラ。

 

そのリーラのあり方が肉体を超えて、私に瞑想の意味

を教えてくれているように感じています。

 

市場 トーショー 記

 

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リーラの旅立ちを見送る

ハートセレブレーションが開催されます。

リーラの愛を感じる機会になるでしょう。

http://unityinstitute.jp/heart_celebration.html