生きているのはギフトである

ユニティ・インスティチュートが提供しているアプローチのひとつに、ELC(エッセンシャル・ライフ・コンサルティング)があります。

エッセンシャルとは本質的なという意味で、生きていくのになくてはならないもの、ということです。命のエッセンスということです。

どうすれば私たちは命のエッセンスを生きていくことができるのか。

このアプローチを詳しく紹介しているのが、「悟りのシンクロニシティ」(リーラ、プラサード、アルヴィナ著 ヒカルランド)ですが、その中に意識の多重構造マップがあります(同書p35、p127)。

人間の意識の在り方を表面から中心にいたるまで、だんだんと内側へと深まっていく多重構造としてとらえ、どの深さで生きているかが、その人がどれだけ満たされるかを決めているのだと教えてくれます。

内側の層のひとつに本質の層があります。

そこには私たちが人間として生きている意味を感じることができる性質、愛、喜び、勇気、感謝、慈愛、やすらぎ、真実などが、誰でも持って生まれたものとして存在しているというのです。

「そこには宝のような性質が存在します」あるいは「そこは美しいたくさんの本質が咲く、花園のようなところです」などと描写されることがあるのですが、この多重構造マップが教えてくれることは、内側に入ってこういった本質に触れることができれば、人間は素晴らしく満ち足りた人生を送ることができる、ということです。

そして外側の生活は、内側の素晴らしい質を表現する場になるのです

しかし実際は、どれほどの人がそのような人生を送っているでしょうか?

あまり多いとは言えないように感じます。

本質を持って生まれているはずなのに、不思議ですね。

人間はひとりで生活しているのではなく、たくさんの人々とともに生きています。

生れたときも他の動物のようにひとりで立つことなどできず、長い間親やその代わりをしてくれる人たちに守られ、世話をしてもらってはじめて生きていくことができるのです。

言葉もまた外からやってきます。

ですから私たちの注意は自然に外を向いてしまいます。

そして多くの場合、外の世界が与えてくれる価値観に従って生きていくようになるのです。

上にも書きましたが、思考は言葉からできています。それは外からやってきたものなので、本当に自分に合っているかどうかは分からないのです。

そして感情は思考と密接につながっています。

私たちが感情的になるとき、そこにはいつでも思考の裏打ちがあります。

なぜ悲しいのか、それは自分にとって大切なものをなくしたからだ、とか、なぜ怒っているのか、それはある人が自分を軽く扱ったからだ、とか、いつでもそこには思考による判断があるのです。

表面のこの二つの層(思考と感情)だけに従って生きていると、その人生は外側で起こることに翻弄されるだけのものになってしまいます。

外側に目を向けて、どうすれば自分が外の価値観に合う人生を送っていくことができるだろうと、苦闘します。

でもそれでは根っこがないので、いつでもふらふらして、自分が定まらず、社会の変化に従って自分も流されていくことになります。

ですから外側を向いている意識を内側に転じる必要があります。

内側に入っていくと、本質に触れ始めます。

そして命の本質に根差して、そこから汲み上げながら生きていくことができるのです。

だからと言って外側にある、思考や感情が必要ないのではありません。

言葉を使って人と関わり、感情を通して人とつながることも、人間として生きることに欠くことはできません。

大切なのは、意識の多重構造マップのどこまでを、自分の人生は含んでいるのか、ということです。

若い人たちが「なぜ頼みもしないのに自分を生んだのだ?」と親をなじったり、生きていくことが苦しみしかもたらさないと言う人がいたりしますが、これは、思考と感情の層だけから生きているときに経験する苦しみです。

これだけの豊かさをはじめから与えられているのですから、あとはそれをどのように使うかということが自分にゆだねられているのです。

あなたにとって人生は苦しみでしょうか、それともギフトでしょうか。

ハートを通して内側に入ると、簡単に本質に触れることができます。

苦しみだと感じる人生から、ギフトだと感じる人生まではそれほど遠くないのです。

市場義人(トーショー)