マインドフルネスについて by 尾崎智子

立春を迎えて、光の勢いを肌で感じていますが、
やっと冬らしい寒さも戻っています。

今日はマインドフルネスということについて、
少し書いてみようと思います。

マインドフルネスに対する解釈は、それぞれの人が、
その立ち位置から、様々に計っているような感じがあります。


例えば、それは、ビジネスの効率をアップしたり、
対人関係をよくするもの、リーダーシップをとるのに役立つもの、
と思っている人がいるかもしれません。

あるいは、慢性痛を緩和したり、認知症の予防になったり、
不安症や鬱の予防や軽減になる、と考えている人もいるでしょう。

自己受容を伸ばし、緊張を緩和し、共感能力を養う、と思っている人も。

それは、その人が、どのような場所でマインドフルネスという言葉に
触れたか、によります。

(ちなみに、上に書いてあることは、すべて、
マインドフルネスの実践がもたらす効果として、よく挙げられるものです。)

現代のマインドフルネスは、精神性を失ったご都合主義だと
嘆く人もいますが、

宗教性を排除した形でのマインドフルネスの普及は、
医療や教育やビジネスにおいて、宗教の壁を超え、
すべての人が実践できるよう整えられたものであることも、
忘れてはなりません。

おそらくは、アメリカで、仏教ならびにマインドフルネスが広まった、
ひとつのきっかけに、ベトナムの禅僧ティクナットハンが、
キング牧師と出会い、ベトナム戦争の平和締結に尽力したこと、

そして、当時の若者や知識人のスピリットに、
マインドフルな心の在り方という新風を送り込んだ、
ということがあるでしょう。


「マインドフルネス」は、パーリ語の「sati
(サティ・想起または気づきのこと)」の英語訳です。

本来の自分を思い出すこと、それに気づいていること―。


現在、医療や教育、ビジネスの各分野に、
マインドフルネスが広がる基盤を作った、
マサチューセッツ工科大学のジョン・カバットジン博士は、
彼の著書の中で、

私たちが思考や幻想に囚われて、夢見の状態で生きていることを、
仏教では「無明」と呼ぶが、
この無明の状態に気づいていることを「マインドフルネス」と呼ぶ。

この夢見の状態から目を覚ますために、
瞑想や、体系的な目覚めの探究や、
今に意識を集中させる「行」を実践するのだ、と語っています。


マインドフルネスを通して、あなたが手にしたいもの、
それが何であったとしても、そこには、仏陀以前からの、
遥かな人間の意識の目覚めの旅の軌跡が織り込まれているのです。


ひたすら瞑想するためにインドに滞在していた何年もの間、
それまでの私という人格、アイデンティティが、幸いなことに、
ずたずたに壊され(自我にとってはなんという痛みだったことか!)、

真に自分は誰か、を問い続けていたころ、
そこには毎日、禅の講和がありました。

目覚めの、究極のトランスミッションがあり、
脈動する生きた禅、LIVE ZENがありました。

師は、警策で弟子を打ちはせず、
その臨在が、矢のように、弟子が本来の自分を知る場所へと、
深く射抜かれるのです。


ユニティインスティチュートのサトルボディヒーリングの
アドバンストレーニングのときだったかと思うのですが、

トレーニングをリードしていたリーラが、
OSHOの「ダイヤモンドスートラ」の講和について触れ、

金剛般若経にある仏陀のサンガ(瞑想者の集い、といった意味)と、
トレーニングを受け瞑想を共にしている私たちというサンガは、
時空を超えて繋がっている、と話していたことがありました。

OSHOは、その膨大な講和の中で、
古今東西のあらゆる光明を得たマスターについて語っています。

過去のこれまでの、あらゆる光明を得た意識、
そしてそのサンガを、現代に、今に勧請する
――いつかの、誰かのサンガにいた人が、
現代再び、魂の旅を続けられるように。

大きな川の流れのように、大海へと向かう意識の旅は、
まさに〈今、ここ〉にあります。


さて、先のカバットジン博士は、このようにも表現しています。

マインドフルネスは、しばしば仏教瞑想の中核として語れるが、
その本質は普遍的である。

マインドフルネスの持つ、知恵、思いやり、明晰さは、
私たち人間の基本的な本質の普遍的な側面であり、
私たちを人間たらしめる最後の共通項である、と。


そう、それを何と呼ぼうとも、私たちの意識の成長を促すものが、
あらゆるところで実践可能になることを願ってやみません。


尾崎智子
https://essentiallifeconsulting.jimdofree.com/