8月29日、バルセロナから日本に向かう飛行機の中でこれを書いています。
7月18日に日本を出てから40日あまり、スペイン、そしてイタリアで、ミラが遺した瞑想アートの方式による絵のグループをファシリテートしたりヘルパーとしてサポートしたりの長い旅でした。
前回のブログでは瞑想アートと私の関係について書きましたが、今回はイタリアでグループが行われたミアストという場所について書いてみたいと思います。
ミアストは正式にはOSHOミアストインスティチュートといって、イタリアの中央よりやや北にあるフィレンツェを中心とするトスカナ地方にあります。もよりの都市までは車で40分はかかる自然の中にあり、広い敷地をもち、OSHOの瞑想センターの中ではたぶん世界で最も大きなものだと思います。
結構客観的な記事があったので、張り付けておきます。
https://joshitabi.info/2018/08/siena-osho-miasto/
ミアストの話をしようと思ったのは、皆さんが学んだり、興味をもってくださっているユニティ・インスティチュートのワークを、このコミューンでもアルヴィナ、プラサードが長年にわたって教えてきているからです。もちろん今は亡くなってしまったリーラも日本と同様にこの場所で、たくさんの人にハート瞑想、サトルボディヒーリング、そしてELCを教えていました。
プラサードがよく日本人とイタリア人の違いについて話をしていました。
イタリア人はシェアリングの時間になるとだれもかれもがしゃべりたがり、交通整理をするのが大変なのに対して、日本人はシェアリングになると黙ってしまい、なかなか最初に話始める人がいないので、日本に来た当時はこの不思議な沈黙に戸惑ったとのことです。
イタリア人は陽気で人懐こく、誰とでもすぐに打ち解ける傾向があります。
ミアストも明るく、皆が友達のようにつながっているコミューンです。
そこにはイタリア人だけでなくロシアをはじめとする東欧諸国やドイツ、スペイン、トルコなどといったところからもグループに参加したり、ミアストに住み込んで働いたりと、たくさんの国の人々が集まっています。
イタリアはおいしい食べ物でも有名ですが、ミアストも例外ではなく、いつもおいしい菜食の料理がたくさんだされ、夜にはなんとワインまで提供されます。
イタリア人にとってワインは生活の中に当たり前にあるもので、若い友人の話によると、彼のおじいさんは、水を飲むときにさえワインを混ぜて飲み、彼が水だけを飲んでいるのを見たことがないそうです。
瞑想アートのファシリテーター仲間の一人、美しいイタリア女性のサハジャも、親戚がブドウ畑を持ち、ワインを醸造する環境で、ワインを飲んで育ったということです。
私が一口で酔っぱらうと言うと、笑っていました。
またコミューンの面白いところとして、ここのキッチンで夜働いているシェフの一人が、実はOSHOの弟子としてはとても古い人で、たくさんのOSHOソングを作り歌っている人で、私の滞在中に行われたフェスティバルでは、彼と仲間たちが歌うOSHOソングのコンサートが開かれ、たくさんの人が歌い、踊り、盛り上がりました。
ミアストができてから30年以上が経つそうですが、朝のダイナミック瞑想、夕方のクンダリーニ瞑想、そして夜のOSHOのビデオ講話はその間毎日続けられてきているそうです。
新しくできたブッダホール(瞑想堂)は、天井は低いものの、広さは体育館くらいの規模でした。ここでのダイナミックは、フェスティバル中は数百人が集まり自分の周りに1メートルの場所が取れるかどうかというダイナミック瞑想としては厳しい状態でしたが、フェスティバルが終わってからも、多くの人がダイナミックやクンダリーニに参加し、OSHOのビデオ講話もプーナとは少し違う手続きで行われていましたが、OSHOに対する敬愛が感じられて、みんながOSHOとのつながりの中に溶け込んでいました。
敷地は最初にも書いたように広大で、舗装道路から未舗装の道に入ってからさらに7,8キロ山の中に入っていき、そこによくたとえで使われる後楽園球場なら二つか三つは入るくらいの広さのコミューンがあります。
最初に友人が最寄りの駅まで車で迎えにきてくれたときには、その車があまりに土で覆われていて、汚すぎるので驚いたのですが、イタリア人は日本人ほど車をきれいにしておくという習慣がないのと、この未舗装の道を走るとすごい土ほこりが立ち、どんなにきれいな車でもあっというまに土まみれになってしまいます。
ここは日本では考えられないくらいに乾燥しています。乾燥した空気の中に松や糸杉などがうっそうと茂っていて、緑の多さと空気の乾燥感が不思議なコントラストをなしています。
さて、話をユニティの先生たちに戻したいと思います。
ここには日本と同じように毎年、リーラ、プラサード、アルヴィナが訪れて、サトルボディヒーリング、ELC、ハート瞑想を教えていました。今年はプラサードとアルヴィナが来る予定だったのですが、日本と同じようにプラサードの健康が万全ではなく、アルヴィナ一人が訪れて教えたそうです。
ミアストではサトルボディヒーリングを学んだ人に、3人出会いました。
ひとりは長年サトルボディをはじめ、たくさんのセラピーやヒーリングの方法を学んで、アシストをしたりセッションをしたりしているオーストラリアの女性で、その姿や顔立ちがリーラに似ているのに驚きました。
彼女はミアストから歩いて20分くらいのサニヤシンの村に住んでいて、私もそこにしばらく滞在したのですが、そのときの隣人でした。
アメリカ人のリーラは言葉の関係もあり、彼女の家のテラスでよくお茶を飲んで話をしていたそうで、友人だったそうです。
私たちもリーラのことを話すだけで、何かハートでつながった感じがしました。
リーラはやはりこの場所でもみなに愛されていて、ミアストの中に毎年訪れるたびに泊まっていた小さな家があり、煉瓦で囲まれた小さな一角を占めるその庭には「リーラの庭」というハート型の立て札が建てられていました。ここに泊まるたびにリーラが自分で庭の植物に水やりをしていたそうです。
またブッダホールには、誰でも使えるようにクッションが置かれている場所がありますが、その部屋の棚の一番上に丸い座禅用のクッションがひとつ置かれていて、そのクッションにはリーラが貼った自分の名前を書いた紙テープがまだそのまま貼られています。
こういったことも、ミアストで出会ったサトルボディヒーリングをしている人が教えてくれたのです。
その人は2人目に出会った人で、ミラの夫のスヴァギートのグループを受けたときの参加者の一人でした。話をするうちに、ミアストでサトルボディヒーリングのトレーニングがあるときには、アシスタントをしているということが分かりました。
グループの中で見たときに、とてもしっかりとしたプレゼンスがあるように感じたのですが、最初から打ち解けて、私も自分の大切な仕事のひとつにしているこのヒーリングを、遠く離れたイタリアで同じように大切にしている人に出会ったことに不思議な喜びを感じました。
日本では仕事との関係からトレーニングに週末の3日間しか使うことができず、ある意味エッセンシャルなことだけを教えてもらったのでしょうが、ミアストでは一回のトレーニングが7日間だそうです。
プラサードやアルヴィナも日本でサトルボディヒーリングを教えるのにずいぶんと工夫し、苦労もしたのだと思いますが、それでも10年間もの間、毎年新しいプラクティショナーが生み出されるほど熱心におしえてくれました。
今はチャクラトレーニングへと名称も内容も衣替えして、プラサードの状態もあり、今後の予定は不透明ですが、それでも今まで長年、私が知っているだけでも日本、イタリア、スゥエーデンと多くの仲間を生み出してくれました。
3人目の人は実は日本人で、英語が話せる彼女はミアストでサトルボディヒーリングを学んで、去年卒業したそうです。
この方とはSMでつながっているので、「実は今ミアストに来ています」とメッセージをしました。
「楽しんでください」
という返事が来たのですが、数日してディナーのときに声をかけてくる人がいて、振り向くとその人が立っていました。
実はボーイフレンドがイタリア人で、近くの町まで会いに来ていたそうです。
確実にミアストに来られるか分からなかったので、私への返事にはイタリアにいることを書かなかったそうですが、この後、先ほどお話ししたOSHOソングのコンサートで、近くで踊るその人を見て、日本とイタリアがいっそう近く感じられました。
このようにサトルボディヒーリング、ELC、ハート瞑想がイタリアで根付いているのを見て、一度日本とイタリア、それにスゥエーデンなど、サトルボディヒーリング、ELC、ハート瞑想のイベントを提供している人たち、学んでいる人たちが一堂に会するコンフェレンスを開くことができれば良いなと思いました。
また話をコミューンに戻しますが、ミアストは昔のプーナの雰囲気を持っています。皆が自由で明るく、知らない人でもチャオと声をかけ合い、この場所が初めての私も我が家のように感じました。
コミューンのすべてがOSHOを愛する人たちで運営されています。
地位や役割の仮面を通してではなく、人がそのままの姿で出会うことができる場所、確かに昔のプーナはそんな感じだったことを思い出しました。
瞑想アートとの関係でもそれを物語るエピソードがありました。
ミアストのあるトスカナ地方は乾燥していて、この季節にはめったに雨は降らないのですが、瞑想アートの基本である5日間のプライマル・ペインティングを行っていたとき、3日目から雨になりました。
グループの終わりころ、急に土砂降りの雨になり、外で乾かしていた絵がみな、雨に洗われてしまいました。絵のグループはブッダホールで行われたのですが、新しいホールには絵を乾かすスペースがなく、外に出して干していたのです。
その夜、プーナでの絵の友人で、長年ミアストでシェフをしていて、最近はマネージメントに回っている男性にレストランで出会いその話をすると、何とかしようと言ってくれました。
次の日に若い人たち5人くらいが手作りのテントを運んで設置してくれました。
この日も土砂降りの雨が降りましたが、絵はテントに「ピザ窯」と呼ばれる方式で隙間を開けて積み重ねられ、無事乾かすことができたのです。
みんなが当たり前のように、お互いのために働いてくれる、そんな実感をもった出来事でした。
ミラを通しての縁で、行くことを考えもしなかったスペインのアマルーラ共同体や、イタリアのOSHOミアストを知るようになり、日本だけでなく、世界の多くの場所で多くの人たちが意識の成長を求めて自分に働きかけているという事実を知ることができました。
ハート瞑想を知る人ならご存知のとおり、私たちは中心でつながっています。
意識的にせよ、無意識にせよ、世界で意識の成長を目指す多くの人たちがつながって動いていることが今まで以上に実感できた旅でした。
市場義人
最近のコメント