今年2回目のコンパッション実践回は、2月5日の朝9時半からです。
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毎月一回、このようにコンパッションを実践する仲間と集うことで、
この世界に、そして周りの人々に、そして渡したい自身にコンパッション(慈愛)をもたらすことをしています。
そのようなつながりに参加されたい方は、ぜひお待ちしています。
今回は愛とコンパッション(慈愛)についてのOshoのお話をお届けします。
ここでOshoが「愛」として語っているのは、普段私たちが愛だと思っているものについてです。
そのようない愛と慈愛との違いについて語られています。
そうすることで、私たちが通常愛と思っている愛の形が浮き彫りになってきます。
私は花を愛している……
私はそれをとても愛しているがゆえに、太陽の光で枯れてしまうのではないかと恐れる。そして、強い風がその花びらを散らしてしまうのではないかと心配する。
動物が食べてしまうかもしれないし、近所の子どもたちが引き抜いて踏みつけてしまうかもしれない。だから私は、その植物を金庫の中に閉じ込める。
ここには、大いなる愛はあるが、まったく慈悲がない。私は強い愛を持っている。あらゆる手段でその花を守ろうとした。
強すぎる日光や風から、子どもたちや動物から守った。
頑丈な金庫を買い、その中に花を入れ、鍵をかけた。しかし、今やその花は枯れてしまう。
私の愛では救えず、すぐに死んでしまうだろう。もしかすると、風はそれほど早く強く吹かなかったかもしれない。
近所の子どもたちも、その花に気づくまでに時間がかかったかもしれない。
太陽の光も、それほど早く花を焼き尽くすことはなかったかもしれない。しかし、金庫の中に閉じ込められた植物は、すぐに枯れてしまう。
そこには完全な愛があったが、慈悲はまったくなかった。
この世界には常に愛があり、非暴力があり、哀れみがあった。
しかし、慈悲はなかった。
慈悲そのものの経験が欠けていた。そして、もし慈悲の経験が生まれるならば、私たちは人生を変革することができるだろう。
もし哀れみが慈悲から生じるならば、それはもはや単なる哀れみではない。
そこには自己満足が存在しないからだ。もし非暴力が慈悲から生まれるならば、それはもはや消極的なものではない。
それは単に「苦しみを与えるな」と言うのではなく、「すべての苦しみを消し去れ、それを根絶し、人々を苦しみから解放し、幸福にせよ」と語る。
もし愛が慈悲から生まれるならば、それは束縛ではなく解放となる。
これまでのところ、愛は束縛の予兆となるだけだった。
愛は鎖をもたらすのみだった。貧しい者は鉄の鎖を身に着け、裕福な者は金の鎖をまとっている。
しかし、もし愛が慈悲から生まれるならば、それは解放をもたらす。私の愛が慈悲とともにあるならば、私は愛する人を自由にするだろう。
私は、愛する人が抱える人生の問題、困難、苦痛を理解するだろう。彼らの内面の状況を理解し、それを助けようとするだろう。
もし、私が愛する人が別の誰かを愛することで幸せを感じるならば、それは私にとっても喜びとなるだろう。なぜなら、私はその人が幸せでいるのを望むからだ。
しかし、私たちが「愛」と呼ぶものは、それを許さない。もし私が愛する人が別の誰かを愛しそうな視線を向けるだけで、私はその人の首をつかみ、「これほど愛しているのに、どうして他の誰かを見つめることができるのか?」と言うだろう。
これは慈悲ではない。
それは極端な残酷さであり、愛の名のもとに行われる深い暴力である。恋人同士がどれほど残酷になり得るかを想像するのは難しい。
彼らが暴力的になったとき、誰もそれに匹敵することはできない。恋人同士が暴力と嫉妬に満ちるとき、世界のどんな者も彼らほど苦しみを生み出すことはない。
いや、もし愛が慈悲から生まれるならば、それは解放となる。
もし哀れみが慈悲から生じるならば、それは自我のないものとなる。もし非暴力が慈悲から生まれるならば、それは積極的なものとなり、単なる否定ではなくなる。
だからこそ、私は慈悲を強調するのだ。
それは単なる言葉の違いではない。そこには内面的な洞察がある。
だから私は、「革命とは慈悲の影であり、非暴力の影でもなければ、いわゆる愛やいわゆる哀れみの影でもない」と言ったのだ。
Osho
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コンパッション(慈愛)を人生にもたらすことに興味のある方は、
誰でも無料でご参加できます。
ご参加お待ちしています。
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