ハートと日本人とソーシャル・ディスタンス

日本全国で緊急事態宣言が解除され、久々にのびのびした気持ちで外に出ている人もいることと思います。

私も京都から大阪に行ったのですが、道を歩いていてこのウィルス感染の危険がなかったころとはっきりと違うことに気付きました。

細い道で人とすれ違うとき、お互いが道の両端に分かれて、できるだけ距離を取るようにしているのです。

電車の中でも今でもそれほど人が乗っていないのですが、今までなら席が空いているといそいで座ったものなのに、今は人と人の間に少なくとも一人分の空間を空けて座っていて、そこに座ることができなかった人は、ドアのところに立っているのです。

そんな風景が当たり前になっていました。

道で人とすれ違いながら、また電車の中で二人席に一人で腰かけながら、自分の中でも知らない人に近づかれるのを恐れていることに気が付きました。

強い恐れではないのですが、一定の距離より近づかれることに対して、警戒感を抱いているのです

これからしばらく(それが一年なのか、二年なのか)、このようにして人との距離を保ちながら生きていくことになるのかなと思いながら、同時に寂しい思いも禁じられませんでした。

 

人と親しく接することは、人間の本質的必要のひとつです。

自分の中で半ば自動的に人を避けるのを感じていると、人というものに対する基本的な信頼や安心感、あるいは愛情といったものが、この警戒心によって阻害されてしまうようにも思われます。

しかし、そのことを意識していることで、大事なものを失うことなく、今までとは少し違った人との距離を楽しむこともできるかもしれません。

もともと日本の文化の中では、人との間に距離を取ることが自然なものでした。

西洋では、友達同士がハグをしたり、国と国との関係でも国を代表する人たちがハグやある種のキスをすることが親密さを表す自然な振る舞いです。

日本に初めて来た西洋人の中には、ときに誤解して、日本人はお互い同士、冷たく距離を取り合っていると感じる人がいるかもしれません。

 

少し話はそれますが、ユニティ・インスティチュートの創始者のひとり、プラサードが初めて来日し、日本の満員の地下鉄に乗ったときのことを、話してくれたことがあります。

彼は、「これほど人との距離が近くても、車両全体が静けさに包まれており、満員の人々の間にはスペースが存在したのに驚きました。これは日本人の中に禅の伝統が息づいているからに違いありません。無意識であるにしても、人々の内側には静かなスペースが存在しているのです」と説明してくれました。

この話により、日本人がもつ素晴らしさに目が開かれる思いがしました。

日本人が自然に人との間に距離を取ることについても、同じようなことが言えるかもしれません。

プラサードがハート瞑想を教えてくれるとき、自分のハートのスペースにそこにいっしょにいる仲間たちや、また家族や友人を招待するようにガイドしてくれるときがあります。

ハートの中に入り、そのスペースに人々を招待すると、その相手との間にどれほど物理的な距離があっても、私たちは深くつながっている感じがするのです。

それは内側にあるハートのスペースには距離も時間もなく、その中では私たちはみなつながっていて、ひとつであるからです。

 

ユニティ・インスティチュートでハート瞑想を学んでいる皆さんは、その通りだと経験を通して同意してくださるでしょうし、今学び始めている皆さんも、すぐにそれを経験されると思います。

そしてもしかしたら、このことは日本文化の中で自然に根付いているもうひとつの特性かもしれません。

日本人の親切さや穏やかさ、(ときにはそれがマイナスの働きをするように感じられはするものの)個ではなく、自然に全体として動くことができる特性が、今回のウィルス騒ぎの中でも死亡率がこれほど低いことの大きな原因かもしれません。

西洋人にハグやキスが大切なのは、もしかしたら日本人にとって当たり前であるこの一つである感覚が内側に自然に存在しないので、物理的な距離を縮めることによって感じるしかないからなのかもしれません(最近はたくさんの西洋人が瞑想によって内側のスペースを見つけ出していますが)。

道で知らない人とすれ違うときにも、あるいは友人とともに過ごしながらもソーシャル・ディスタンスのマナー(?)を守る必要がある状況では、自分のハートのスペースを意識し、私たちが同じハートのスペースの中にいることを感じてみましょう。

そのとき、自分の中に恐れがあるなら、その恐れにも居場所を与えます。

ハートのスペースの中では、どんなものでもそこに自分の居場所を見つけることができます。

そうすると、私たちは本来のひとつである感覚の中に抱かれることができます。

そして触れられること、親密であることの人間としての本来的な必要がより深い意味で満たされるのが感じられるかもしれません。

日本人にはそれがごく自然にできることのように思います。

その上で、しばらくして物理的な距離が必要でなくなったとき、本来的な親密さや安心感、愛情の感覚を失うことなくこの状況を通り過ぎた私たちは、今度は西洋文明の良いところである物理的な距離もまた縮めることを楽しむことができると思います。

市場義人