【WS】ラハシャのサットサングの味わい

昨日配信したメルマガでは、ラハシャのリトリートに参加された皆さんからの感想の一部を紹介させていただきました。

今回のリトリートでは宿泊で行われましたので、食事時などには、コース以外での参加者同士でのお話の時間がありましたし、また普段の日常から離れて、自分の時間を楽しまれた方もおられたことと思います。

そしてコースの中では、ラハシャの講義だけではなく、普段のzoomや自宅にいては体験できないようなことなどを行いました。

みんなで一緒に行うアクティブな瞑想や、サットサングなどにも多くの時間をとりました。

また思いもかけず、多くの方がラハシャからテイクサニヤスされることを希望されたので、テイクサニヤスのセレブレーション(お祝い)なども行い、今回テイクサニヤスされた方にとっても、それをお祝いする人たちにとっても、思い出深い体験のひとときになったことと思います。

それはともかく、今回はラハシャとのサットサングの体験の感想を送ってくださった方がおられましたので、その体験をご紹介します。

サットサング(Satsang)というのは、一般的には、サンスクリット語の 「Sat(真理)」 と 「Sangha(集まり、交わり)」 から成る言葉で、「真理を追求する人々の集まり」とか「真理と共にあること」を意味がする言葉ですが、最近はいろんな形態で開催されているようです。

Oshoの臨在のもとでなされていた時には、まさにマスター(師)と弟子との出会いであり、真理の伝達の場として、神聖な雰囲気がありました。

ラハシャとのサットサングでは、フレンドリーな雰囲気でありながらも、そこでなんでも話したいことを話すことができます。

自分が人生で悩んでいることでもいいし、講義でわからないことや、人生で抱えている疑問についての質問をすることもできます。

また、自分が得た洞察や気づきを分かち合うこともできます。

そこではラハシャの臨在を鏡として、自分自身を映し出すことになったり、思いもかけなかった洞察や気づきを得たり、さまざまなことが起こります。

Oshoのもとでもよくあったことですが、そのような人の前に座ると、マインド(思考)が消えてしまい、質問しようと思っていたことが消えてしまうというようなこともよくあることです。

そうした時には、ただあるがままの自分であることしかできなくなります。

その周りを参加者の人たちが取り巻いて座っているのですが、そこで話されることや質問などは、まさに自分の質問であったりもするので、そのサットサング自体が、参加者の人たちみんなにとってのサットサングにもなるのです。

そんな雰囲気を感じ取っていただければと思います。

Love

ラハシャ、および和尚アートユニティ、一緒に参加して下さったみなさん、ありがとうございました。

現時点での私の人生の 「三つの最優先事項」のうちのひとつ 「 瞑想を深め、自分自身の内面を探求していく」というテーマを、 三日間、満喫することが出来ました。

今回のリアルセミナーでは、前回一年前のリアルセミナー以来、 二度目のサットサングを、させて頂きました。

実は、特に質問は思い浮かんでいなかったのですが、 ラハシャの目の前に座って、ラハシャの瞳の奥を覗かせて貰いたいがために。

さて、そのサットサングですが、 まずは、 一年前のリアルセミナーで、ラハシャにサニヤス名:Paritosh(パリトーシュ)を頂いて その後、瞑想が、どんどん深まっていったことへのお礼を伝えたあと 朝から考えていた質問をしようとしました。

ところが、ラハシャの瞳の奥を覗き込んだ瞬間、 質問が、どこかへ飛んで行ってしまいました。 一瞬、あせりましたが、まあ、それはそれで、この状況を楽しもうと 特に質問は無く、 ラハシャの目の前に座って、ラハシャの瞳の奥を覗かせて貰たかったということを 正直に伝えました。

そして、ラハシャの瞳の奥を覗き込んでいると、言葉では表せない、不思議な気持ちになり、 涙が溢れてきました。

ラハシャの瞳の奥を覗き込むと、それが鏡となって、自分自身の中の何か、深い部分、 存在・ビーイング等が、感じられるのではないかと思いました。

一年前のサットサングの時に、ラハシャの瞳を覗き込んだ時にも、同じような感じになったのですが 今、思えば、あの瞬間に、テイクサニヤスしていたんだなと、改めて認識しました。

その後、なぜそうなったのかは覚えていないのですが、ラハシャに手を使った仕草で、 スウォード(剣)で、優しく切られました。

そこで、 昨年のゴールデンウィークのオンライン・瞑想セミナーで、瞑想時の不思議な体験にこだわっていたら ラハシャにスパッと切られたことを、思い出しました。

今、思うと、あの時、ラハシャにスパッと切られたお陰で、 その後、瞑想中に起こる、そういった体験に執着しなくなり ただ、そのまま、気づいている・観ていることで、どんどん瞑想が深まっていきました。

瞑想中に、自分自身のエゴに、気づきやすくなったかなとも、思います。

禅の講話とかが好きなので、警策で、座禅中に背中などを打つことの意味は、 ある程度、知識としては知っていましたが、 実際に私自身が瞑想を深めて行く上で、ちょうど良いタイミングで警策で打つ 切ってくれたのだなということが、知識・マインドを超えた部分で、腑に落ちました。

改めて、ラハシャやOAUさんとのご縁に感謝です。

サットサングの最後に、ラハシャとハグさせてもらったのですが、 思わず衝動的に、ラハシャの第三の目(額のあたり)に、自分自身の第三の目で触れたくなり、 ラハシャ額に、私の額を、くっつけてしまいました。

後ろから見ていた人には、パリトーシュが、ラハシャにキスをしたように見えたそうです。 大丈夫です、ラハシャの唇には触れていませんので!

Paritosh(パリトーシュ)


今回のラハシャとのリトリートは意識的に生きるための扉を開く(コンシャスリヴィング)ということをテーマに開催されましたが、参加者の半分の方は「コンシャスリヴィング」のオンラインコースの参加者のみなさんで、半分は、新しくラハシャのコースに参加されたみなさんでした。

このような場に触れる機会ことはますます少なくなってきています。

Oshoのフレイバー(香り)は本当に貴重で美しいものです。

それは仏陀の香りであり、キリストの香りであり、老師の香りでもあり、これまで覚醒を得た人たちの香りでもあります。

瞑想とはそのような香りを自分の内側に灯すことです。そのような香りを伝えることのできる機会を提供できればと思っています。

OAU
えたに