試練と変化に向き合う。あなたや周りの人が病気になったり、痛みを体験したり、意識を失ったり、健康上の問題や障害に直面しているとき、あなたやその人々をサポートするための瞑想、記事、情報など。
健康上の試練
感情
回復する力と自分の内在的な資源を見いだすこと
病気のときのあなたをサポートする瞑想の技法
病気についてOshoが語る
痛み
痛みについてOshoが語る
記事と情報
追加の情報
健康上の試練
具合が悪くなったり、障害を持ったりすると、たくさんの問題が浮上する可能性があります。
たとえば、経済的な心配や責任、痛み、どの治療を選んだらいいかわからない、自分のコントロールがきかない、周りの人に依存しなくてはいけないことへ苦痛などです。
おそらく、とくに大きいのは未知への不安でしょう。
自分はいったい回復するのか、それはいつなのか、そしてどの程度回復するのかがわからない。再発するかもしれない。これ以上できることはありませんと告げられたとき、「あとどれくらいの時間が残されているのか」わからない、残りの何週間、何日がどんなものになるかわからない。
自分や、自分が世話をしている人が病気と診断されたとき、出てくる心配事について
私たちは健康な状態を当たり前だと取りがちですーそれが脅かされるまでは。病気だと診断されると、ありとあらゆる反応が起こりえます。
不確定な要素
病気とは、まさにその本質から、多くの未知数(治療法や薬剤の副作用にどう対応するかなど)や、不確定要素があることを意味します。
こうした未知の状態は、自分がコントロールしている、足下にはしっかりした大地があるという私たちの感覚をぐらつかせかねません。
不安は、このような疑問となるかもしれません。
- 私の医者は信頼に足るのか? 私への診断/予測は正しいのか? このアプローチ(西洋医学か代替療法か、あるいはその組み合わせか)は適切だろうか?
- (病気が深刻な場合)病気は回復するのか?
- 病気の間、家族/ビジネス/同僚/ペットは、私がいない間、どうするだろうか?
- 病気が長引いたとしたら、医療費を払えるだろうか?
- 友人や家族は、病気が長引いても私を支えてくれるだろうか?
病気が進行するにつれて、ある課題が浮き彫りになるかもしれません。
例えばー
コントロールや自立が失われる
重病人や末期患者にとって、病気が進行するにつれ、自立が失われるという事実は、受け入れざるをえない側面です。
肉体的に衰弱すれば、避けられないことであり、残念ながら、看護師や医療に従事する人は依存を増長する傾向があります。
自分の世話をしてくれる人との関係が、むずかしいものになる可能性もあります。
病人は、子供扱いされがちだ。女性の場合は、特にそうだ。医師やその周りの人は、まるで当人がそこにいないかのように話すことも多い。私たちが何かを言い立てたりしたら、良い患者ではないというように……
患者は、自分の恐怖は胸に収めて、何でもない顔をするようにというメッセージを受け取る。あなたは怒ったり、専門家に質問をするべきではないし、恐怖のどん底にいても、それに触れてはいけない。もしあなたが怒ったり、自分をかわいそうに感じたら、あなたが感情的になったら、医師や看護師に自分の気持ちに注意を払ってほしいと望んだら、あなたは問題だというわけだ。 [1]
ステージ4の脳腫瘍と診断された精神科医のServan-Schreiber博士は、長期的な病気の進行中の課題についてこう書いています。
あなたは、ありとあらゆるささやかな戦いに晒される。起き上がり、食事をし、頭痛や吐き気、注射やあらゆる肉体的な痛みにもかかわらず、いい気分でいなくてはならないのだ。
話すための力、聴くための力、人とのつながりを保つための力を見出さなければならない。これらはささいな戦いだが、それが次から次へと容赦なく続き、自分の注意がすべて奪われることになる。
さらに重要な戦いがある。検査、麻酔、手術。残された力で、最も肝心なこと、つまり自分と家族との関係を安全に守らなくてはならないのだ…。[2]
周囲の無関心、孤独感と疎外感
かつて自分が健康で、活発なメンバーとして住んでいた世界との関係は、必ず変化します。今や、ほとんど人間とは違う種になったかのようです。
具合が悪くなればなるほど、あなたはますます孤独を感じ、不安になり、落ち込むでしょう…たとえ「以前」の自分のライフスタイルを諦めざるをえなくても、患者としてはあなたは、自分がまだクラブ−生きることのクラブ、何かをしたり、自分の人生を生きている人たちのクラブ−の一員だと感じる必要があるのです。[3]
身体との関係
私たちが身体のことで意気消沈したり、屈辱感を持ったとしても、それは理解できることです。
もし私たちが自己イメージに投資し、健康で若々しく美しい身体を持っていることに自分の価値や意味を感じてきたとすれば、それは特にむずかしい問題になるでしょう。
自己認識の変化
重大な病気を通して、大きな変化が起こり、二度と同じ自分ではいられなくなるかもしれません。自分というアイデンティティを築くのを助けてきた、なじみのある外的なサポートがなければ、自分はいったい何者なのかという、存在の基盤そのものへの問いが起こる可能性があるのです。
[患者となり、私は今や] ...どんな資格も専門性も認められない、色のない世界にいた。この人生で何を成し遂げ、どんな思いを持っているかなど、だれも気にしていない世界だ。
ある日のディナーパーティに、当時の私の主治医(私のお気に入りの素晴らしい癌の専門医)も客として現れた。私は、彼が顔色を変え、そそくさと席を立ち、あいまいな言い訳を残して立ち去るのを見た。そのとたん、それが生きている人たちのクラブであり、私はその一員ではないというメッセージを受け取ったように感じた。
私は自分が、隔離されたカテゴリー、病気によって主に定義される人々のカテゴリーに属していることが恐ろしくなってきた。私は、自分が目に見えない存在になるのが怖かった……もはや以前のような存在でなくなるのが怖かったのだ。[2]
意味を見出す必要性
私たちには、何を体験しようとも、その体験に意味を見出そうとする回路が備わっています。
それには、なぜ自分は病気になったのか、なぜ日常生活が大きく変わらざるをえなかったのか、なぜ自立を失ったのか、なぜアイデンティティの感覚が崩壊したのかを理解しようとする努力も含まれます。
高次の力とのつながりを感じる人にとっては、審判や罰、信頼や明け渡しといった問いが思い浮かぶかもしれません。あるいは、内なる成長の機会として体験されることもあるでしょう。
あきらめと受容
この2つは同じように見えても、まったく違った状態です。
あきらめて状況に身をまかせるときには、お手上げの感覚、「自分にはどうしようもない」から屈服するしかない、他に選択肢はない、という感覚があります。そこには、悲しみという皮をかぶった怒りや徒労感があるでしょう。
受容とは、「これはまさしくこうなのだ」という、たんなる頭での理解以上の理解です。
悲しみはあるかもしれません。これまでの人生をすべて手放し、別れを告げられるようになる必要があります。何らかの後悔や、未完の感覚もあるかもしれません。こうした感情を表現することができれば、それは役に立ちます。
入院の影響
家から病院やケアホームへ移る場合、必然的に、肉体的にも心理的にも、とても異なった環境に適応しなくてはならなくなります。
* 私たちは、なじみのない環境で、介護の専門職員と長時間過ごすことになるかもしれません。その場合の心配とは:
- 自分の欲求をうまく伝えられるだろうか?
- 自分の欲求は満たされるだろうか?
- 安心できるだろうか、自分は尊重されていると感じられるだろうか?
- 以前は愛され、価値のある個人、家族の一員とみなされていたのに、、今や私たちは、患者となり、「症例」となり、ベッドの番号として識別されるようになります。
時が経つにつれ、疎外感や孤立感、活動的で健康的な社会から締め出されたような感覚を感じるかもしれません。
自分はつねに状況をコントロールし、たくましく、自立した、愛されるべき存在だ、肉体的に魅力的な存在だというセルフイメージを修正する必要があるかもしれません。
もしこうしたイメージに価値を置いてきたとすれば、それも見直す必要があるでしょう。
その一方で、自分に関するそのような観念のもろさがわかってくると、あらゆる理想や役割を超えたリアリティを探求する内なる旅を始めることが可能になります。
- どんな施設の世話になるとしても、多かれ少なかれ自律の感覚は失われます。なかでも睡眠、起床、食事、浴室の利用、医師の診察、訪問などの時間がすべて決められている病院では、とりわけ顕著でしょう。
- 治療に関する状況次第で時間が変わり、私たちは処置や結果や医師の診療を待たなくてはなりません。以前の自分のライフスタイルの時間割を持つことも、興味のあるものに向かうこともできず、退屈な時間がダラダラとすぎていくかもしれません。
- 患者であること、それに伴うすべての意味を理解することが大切な人もいるでしょう。意味を見出すことで、自分が行為の主体だという感覚を取り戻すのに役立ちます。それはまた混乱を軽減し、私たちが穏やかな普段の感覚に立ち戻るのを助けます。
肉体的な痛みと不快感
重い病気が進行すると、痛みが主な課題になるかもしれません。
それがどの程度痛み、どれぐらいの期間あり、緩和のためにどのような対処法があるのか、ということです。痛みの体験に際して、私たちがどんな役割を果たすことができるのかを理解し、痛みの知覚を最小限に抑える助けとなる瞑想の技法や戦略になじんでおくことが役に立つでしょう。
「病気と痛み」の「痛み」のセクションを参照してください。
上に述べたのは、重い病気や思うように動けない人、臨死状態の人に起こりうる課題を短くまとめたものです。
こうした課題は、「OSHOサマサティ・エクスペリエンス」、「OSHOサマサティ・インテンシブワークショップ」で、あるいは「病気と痛み」、
「死について」のセクションにある情報によって、さらに探求することができます。
出典/推薦図書
[1]
Close to the Bone: life-threatening illness as a soul journey
Jean Shinoda Bolen, M.D. (Conari Press)
[2]
Not the Last Goodbye: on life, death, healing and cancer
David Servan-Schreiber (Viking)
[3] Anticancer: a new way of life Dr. David Servan-Schreiber (Pub: Scribe)
Teach Us to Sit Still: a sceptic's search for health and healing Tim Parks
Humour: The Lighter Path to Resilience and Health Paul McGhee
My Stroke of Insight: a brain scientist's personal journey Jill Bolte Taylor
痛みについてOshoが語る
「痛みがあるときには、どうしたらいいでしょう?」という問いに、Oshoは驚くような返答をしています。
痛みへの賢明なアプローチ
私が提案するのは、痛みがあれば、避けようとせず、そこに深く入っていくように、というものだ。
痛みがあるにまかせ、痛みへと開き、できるかぎり敏感になるのだ。痛み、そしてその痛みの矢が、あなたの核そのものを貫くにまかせなさい。苦しむのだ。そして喜びがやってきたら、それがあなたを最奥の核へと連れていくにまかせなさい。そのダンスを踊りなさい。痛みがあればその痛みと、喜びがあればその喜びといることだ。
この上なく敏感になり、痛みと喜びの瞬間を、大いなる冒険にするがいい。そして私は、あなたにあることを言いたい。もしあなたにこれができれば、痛みもまた素晴らしいとわかるだろう、と。それは喜びと同様に素晴らしい。それはあなたの存在を研ぎ澄まし、ときにはあなたの存在に、喜びよりも大きな気づきをももたらす。
喜びは鈍らせる。だからこそ、ただ享楽に生きる人々は軽薄に見えるのだ。彼らには、何の深みもないとわかるだろう。彼らは痛みをまったく知らずにいる。一つの快楽から別のものへと動き、表層だけで生きている。プレイボーイだ - 彼らは、痛みが何なのかを知らないのだ。
痛みはあなたをとても注意深くする、痛みはあなたを大きな思いやりで満たす、痛みはあなたを、人の痛みに対しても敏感にする。痛みはあなたを広大に、巨大に、大きくする。
ハートは、痛みゆえに育つ。それは美しい。それには独特の美しさがある。痛みを探し求めなさいと言っているのではない。私が言っているのはただ、そこに痛みがあれば、それも楽しむように、ということだ。
それは存在の贈り物であり、そこには隠された宝があるはずだ。痛みを拒否せず、それもまた楽しむがいい。受け入れ、歓迎し、ともに在りなさい。最初は難しく、骨が折れるだろう。だが、次第に、あなたはその味わいを学ぶだろう。
まさに他の味と同じように、その味わいを学ぶ必要がある。何か新しいことを始めるなら、その味を知らなくてはならない。そしてもちろん、苦痛の味は苦い。だが、一度知れば、それはあなたに途方もない鋭敏さと輝きを与える。
それはあなたから、あらゆるほこりを、あらゆる放心状態や眠気を振い落してくれる。それは他の何よりも、あなたを全面的に意識的にする。快楽の中よりも痛みの中でのほうが、あなたはより瞑想的であることができる。
快楽は気を散らす。快楽はあなたを飲み込む。快楽の中では、あなたは意識を放棄する。快楽はあなたを無意識にする傾向がある。快楽は一種の忘却、物忘れだ。痛みは想起だ。あなたは、痛みを忘れることはできない。
気づいたことはないだろうか? あなたは、幸せで楽しいときにではなく、苦痛があるときに神を思い出すということを。
誰がかまうだろう? 実際、あなたは楽しいとき、自分を忘れ、神を忘れ、すべてを忘れる。物事はとてもうまくいっている。しかし苦痛があれば、あなたは神を思い出す。
苦痛はとても創造的なエネルギーになりうる。
神性なるものを想い起こさせる。
痛みは祈りに、
瞑想に、
気づきになりうる。
私は何を教えているのだろう?そこに痛みがあれば、それを気づきとして、瞑想として、魂を研ぎ澄ますものとして使うことを教えているのだ。
そこに快楽があれば、それに溺れ、忘れることとして使いなさい。どちらにせよ、神性に至る道だ。ひとつは自分を完全に思い出すため、ひとつは自分を完全に忘れるためのものだ。
苦痛も快楽も、ともに活用できる。しかしそうするには、とても知性的でなくてならない。
私が教えているのは、愚か者の道ではない。私が教えているのは、知性のある、賢者の道だ。存在があなたに何を与えようと、あなたにとって創造的な成長のための状況にする方法を見つけようとすることだ。
(Osho: 『The Discipline of Transcendence』)