年を取ることは成熟と同じでしょうか? なぜ年を取ることへの恐怖があるのでしょうか? 「シワ」になったらどうしたらいいですか?


気づきと成熟

成熟することは継続的なプロセスなのか、また気づきと成熟することは関連があるかという質問に、Oshoが答えます。

「そうだ。成熟は継続的なプロセスだ。成熟には限界がない──大空でさえその限界にはならない。あなたの意識は宇宙全体よりもはるかに大きい。それは無限に無限だ。あなたは「十分だ」と言える地点に達することはできない。つねにさらにもっと多くがある。つねにもっと成長し続ける可能性がある。そして成長すること、成熟することがこれほどにも素晴らしい体験なのに、誰がそれをやめたいと思うだろう?

私たちはあらゆる方法で阻止される。アルバート・アインシュタインのような偉大な科学者でさえ、彼の知性の15パーセントしか使用していなかった。普通の人々についてなど言うまでもない──彼らはけっして5パーセント以上を使ったことがない。

自分の知性を完全に使うことが成熟の始まりを意味する。

気づきとは方法論にすぎない。まず、自分がどれだけの知性を使っているのか、そもそも自分は知性を使っているのかに気づくようになりなさい。信念や信仰、そういうものは知性ではない。それはあなたの知性に反して決断しているのだ。気づきとは、自分がどれほど知性を使っているかを観察する方法だ。またそうしてただ観察するだけで、あなたは自分がそれほど知性を使っていないことがわかるだろう。気づきがあなたを注意深くする多くの方法がある。あなたはそれを使うことができる。

気づきはあなたをあなたの知性の百パーセントまで連れて行くだろう。それはあなたをほとんど神にする。しかも気づきはそこで立ち止まらない。気づきはあなたが自分の知性を完全に使うように助ける。

知性とはあなたが外に向かうための通路だ。それはあなたを世界と、対象物とつなぐ、知性はあなたにより多くの科学、より多くの技術を与える。実際、私たちが自分の知性を利用することができたら、人間はこれ以上働く必要はない。機械がほとんどすべてをすることができる。

気づきはあなたの知性を解放するだろう。それはあなたを成熟させる。その先は成熟が成長しつづける。

通常、あなたはただ年老いるだけで、成長しない。年老いることと成長することはまったく別のことだ。動物はすべて老いるが、人間を除けば、成長することのできる動物はない。


年を取るとは、単にあなたが死に近づいているというだけのことだ──さして大きな成果ではない。
成長するとは、あなたが始まりも終わりもない不死なるもの、永遠なるものに気づくようになるということだ。


すべての恐れは消える。すべての妄想は消える。あなたは死すべきものではない。

年老いれば、あなたは死すべきものだ。成長することで、あなたは不死になる。あなたは自分が多くの家を変えていくことになることを知っている。あなたは多くの形態を変えるだろう、しかし形態を変えるごとに以前の形よりも良いものになるだろう。なぜならあなたが成長し、成熟しているからだ。あなたはより良い形態、より良い肉体に値する。そして、ついには、あなたがもはやどんな身体も必要としない瞬間がやって来る。あなたはただすべての存在に広がる純粋な意識として留まることができる。それは喪失ではない。それは獲得だ。

蓮の葉から大海に滑り落ちる一滴の露……。ちっぽけな水滴が消えた、その固有性を喪失したと考えることもできる。だがちょっと別の側面から見てごらん。その水滴は大海になったのだ。その水滴は何も失っていない。水滴は広大になった。大洋になったのだ。

気づきとは、まず最初にあなたの知性を目覚めさせ、それからあなたの存在を目覚めさせ、そしてあなたが成熟するのを助け、あなたに不死性を理解させ、そして究極的には、あなたを全体とひとつにする方法なのだ。」

(『From Bondage to Freedom』Osho)

楽しみなさい - シワも何もかも

Oshoは、年を取ってシワが増えた感じがすると書いてきたManeeshaからの質問に答えます。

私は最近古びた感じがしています - 古びて賢くなった感じじゃなくて、しわくちゃの古びたプルーンみたいな感じです。


マニーシャ、しわくちゃの古びたプルーンが好きな人はたくさんいる。私は好きではないが、それは事実だ…。そして古びたと感じるのは素晴らしいことだ! もしあなたが賢くないのなら、そうあればいい。だが、悲しむことはない。

自分を古びたと考えることは、西洋では特に困難な問題だ。とりわけ西洋の女性となればなおさらだ。古代の女性でさえ、死人までもが、口紅をつけ、きれいに化粧をして髪を結ったのだ。ときには生きているか死んでいるかが疑わしいほど、いったいいつの時代の人なのかさえ疑わわれるほどに。

特に西洋では……、私は驚いたことがあるのだが、何人かの女性たちは……マイゴッド! 私に理解できるかぎりでは、その女性たちは墓の中にいて、しかも買い物をしているのだ! 特に古びた女性たちとなると買い物以外に他に何もすることがない。

だから古びていることを心配しすることはない。楽しみなさい! もしあなたが自分の子供時代を、自分の青年時代を、自分の老年時代を楽しむことができたら……そのとき突然、あなたは自分がこれまでいちども、子供であったことも、青年であったことも、老人であったこともないことを理解する。あなたはまさに純粋な意識なのだ。意識はどんな年齢層にも限定されることはない。

困難を生み出すのは、あまりにも肉体に自己同化した、肉体指向のマインドだ。西洋人女性は非常に肉体指向だ。それには理由がある。若さはあまり長くは続かないからだ。若さとは一瞬のつかの間の現象だ。西洋は他の何にもまして若さに関心がある。いったん若者の年齢をとおりすぎると、あなたはゴミ箱行きの準備ができる。誰もあなたを気にしなくなる。誰もあなたに目もくれなくなる。

東洋では状況は同じではない。東洋では年上であればあるほど尊敬される。なぜなら年寄りはより経験を積んでいるからだ。彼は人生を生きてきた。彼はずっと多くのことを知っている。自分もまた同じ体験を通らなければならなくなるのだ。年上を尊重するのは良いことだ。自分もすぐに年老いるのだから。それに年を取るのは悪いことではなく、むしろ経験を積んで尊敬されるのだという考えが流行れば、自分が年老いても子供たちは尊敬してくれるだろう。だがそのためには自分が年寄りを尊重することでその考えを生み出さなければならない。

西洋は老人の社会的地位を完全に破壊した。老人の尊厳を奪ってしまった。そのため、年老いた男や女は……老女のほうが不運だ、なぜなら男は女より早く死ぬ。男性の老人はまだ幸運だ。男は5年は早く死ぬからだ。

そして夫が死んだ後、妻はさらに少なくとも5年から10年も孤独に年老いて、見捨てられて生きなければならない。誰も「スイートハート」などと声をかけてはくれない。彼女はひたすら待ちつづける。自分も「ダーリン」と呼ばれていた昔を、古き良き時代を、ロマンチックな日々を思い出しながら。

今では誰も気づいてくれないのに、彼女は自分を騙す。それは彼女が注目されることを求めているからだ。あらゆる種類の化粧をして、髪を染める……。おそらく今では彼女はハゲていて、どこかの死んだ女性の髪をカツラにしている……。人々がカツラを使うのはじつに奇妙だ。カツラとは死人の髪を使っているということだ! まったく恥ずかしがりもせずに。

毎日、新聞には誰かが結婚したというニュースが載っている。男性は97歳、女性は94歳だ。二人とも友人に着飾ってもらっている。それから奇妙なことが起こる。彼らは「新婚ホヤホヤ」というラベル付いたスーツケースを持って新婚旅行まで出かける。そういう人々にはとても笑わされる

あるとき新婚夫婦が海辺のホテルに到着した。女はすぐにバスルームに入って、「明かりを消して」と男に言った。

男は言った。「どうして? まず君が出るといい。そうしたら私が風呂に入るから、その後で二人でベッドに行って、明かりを消せばいいよ」

彼女は言った。「ダメよ、あなたが明かりを消して。まず私がベッドに入るから、それからあなたがお風呂に入れば。なぜあなたは明かりをつけておきたがるの?」。

男は言った。「当然だろ、私はありのままの君を見たい。そのメイクをすべて。君がハゲていないか、他に無くなっているものがないか。私は君の夫なんだから、すべてのことを知りたいんだ。私は明かりをつけておくよ」

女は言った。「そんなに言い張るのなら、じゃいいわ。あなたがお風呂に入るとき、私も明かりをつけたままにするから」

彼は言った。「それはできない。私は君の夫だ」

彼女は言った。「今は男女平等の時代よ。それに小さな子供じゃあるまいし。私は94歳よ。私だって、あなたに無くなっているものがたくさんあるのを知ってるわよ。97歳にもなって、あなたが失われたものがないはずがないでしょ!」

男は言った。「わかったよ。片方の脚が木なのは認めるよ」。

「他には?」と彼女。

「片方の目は本物じゃない」と男。

女は笑って、言った。「じゃ、もう明かりをつけておいていいわよ。両方の胸ができたから。あなた、ずっと私の胸を見てたでしょ。両方ともただのゴムよ。あなたの言うとおり」。そして彼女は自分の髪を投げ捨てた。「このカツラを持っていって。あなたのためだけに、私はどこかの死んだ女の髪をかぶっていたんだから。それと私の歯は風呂場に置いて行くわ!」

何というか……あなたたちはなぜ結婚するのだろうか? 互いに相手を苦しめ合うためかね? 世界中を移動していたときに出会った多くの人々。私には信じられなかった。なぜ彼らは墓の中で静かに眠っていないのか? 互いに相手に必要もない嫌がらせをし続けるという以外に、理由は何も無いようだった。

マニーシャ、あなたはこう言う:

私は、毒をあおって自殺したソクラテスのような態度で老齢に臨みたいです。肉体に訪れるあらゆる変化を見守り、それが自分ではないことを知りながら。

ソクラテスがしたようにする必要などない。どういうわけかあなたは私を犯罪者にしたいようだ! 私があなたに毒を差し出すとでも言うのかね?

普通に人が死ぬように死になさい。ベッドの上で、静かに、それについて大騒ぎしたりせずに。

そしてマニーシャは言っている。

それはともかく……、

彼女はすぐには死にそうもなさそうだ!

それはともかく、私は講話ではあなたのためにドレスアップをして、あなたに美しく見られたいと思っています。

あなたは不必要な努力をしている。あなたが美しいことを私はすでに知っている。ドレスアップする必要はない。たとえあなたがしわくちゃの古いプルーンだとしても、私はあなたを愛している。私は食べはしない。それだけは言える。私はあなたを愛することができるが、ただ遠くからあなたを愛している。

そしてマニーシャは私に尋ねている。

あなたがいるところからは、私のシワは見えません。Osho、何が見えますか?

さて、これは誰もに共通する質問だ。私が自分を見ているかどうかを誰もが気にしている! 私には完璧に見えている! 自分の化粧や服装など気にしないことだ。自分のシワを心配するのはやめなさい。というのも、たくさんの人が私にアイクリームを送ってくるからだ。これからは私はそれをマニーシャに回すことにする。なぜならそれらはすべて偽物だからだ。ただそれをアイクリームと呼んで女性をだましているだけで、何も変わらない。かえって大きな問題になるだけだ。

ハミッシュ・マックタヴィッシュと妻マギーは一度も飛行機に乗ったことがなかったので、地元の航空ショーで小さなオープン機に乗ることにした。まさに飛行機の後ろから機内に入ろうとしたとき、パイロットが20ポンドの料金を請求した。

「20ポンドだって?」マックタヴィッシュは大声を上げた。「それはバカげている、いくらなんでも高すぎる!」

「いいでしょう」とパイロット。「じゃ、あなたと取引をしましょう。もしあなたたちが飛行中最後まで一度も声を上げなかったら、私は一銭ももらわない。しかし、もし声を上げたら、あなたは倍払う!」

ハミッシュは同意して、彼らは離陸した。空中に飛び上がるやいなや、パイロットは飛行機を回転させ始め、急上昇しては急降下したり、横転をしたり、あらゆる曲芸飛行の技をやって見せた。

再び着陸したとき、パイロットは肩越しにこう言った。「参りました。あなたたちの勝ちです。まさかお二人がこれを全部、声も上げずに我慢できるとは思わなかった!」

「簡単じゃなかったよ」とマックタヴィッシュは認めた。「特に妻が落ちたときはね」
(『Yahoo, the Mystic Rose』Osho)

年を取るのか成長するのか

ただ年を取るのではなく成長するとはどういうことですか?
Oshoは答えます…。

誰もが年を取るが、成長する人々はごくわずかしかいない。年を取るのは水平的なプロセスだ──ただ一列になって移動するだけだ。揺り籠から墓場まで行くかもしれないが、水平方向に移動しただけだ。あなたは年令を重ね、年老いたが、あなたの内なる存在はそれまでとずっと同じまま深い暗闇の中にいる。

あなたが垂直に成長しはじめ
意識の高みにまで上昇しないかぎり、
あなたは成長していない。

私たちのすべての教育は、成長することは年を取るということとは異なったプロセスだという事実にまったく気づいていない。バカでも年は取る。覚者たちだけが成長する。

成長というプロセスは、あなたの根源の奥深くに入っていくことだ。

あなたはこれまで、木が高くなればなるほどその根は深くなる、という事実を考えたことがあるだろうか? 200フィートから300フィートにもなる大木となると、小さな根では支えられない。それだと倒れてしまう。高さ300フィートの木には、正確に同じバランス、つまり深さ300フィートの根が必要だ。高さがそうなら、深さもそうでなければならない。

もし成長したいのなら、あなたは自分の根源により深く入ることを考えるべきだ。すると成長するということは、あなたがより注意深くなり、より静かになり、より安らぎに満ちるということの副産物となるだろう。


あなたが自らの存在の中心でより深く進むほど……ある途方もない変容が起きる。あなたは意識の究極の高みへと成長しはじめる。その高みではあなたが覚者なのだ。

(『No Mind: The Flowers of Eternity』Osho)

成熟と老化:その違い



Oshoは、成熟と老化の違いを、本質的には気づいていることと眠っていることの違いとして説明します。

そこには大きな違い、広大な違いがある。そして人々はそれについていつも混乱したままだ。人々は年老いることを成熟することだと考えるが、老化は肉体に属している。

誰もが年をとる。誰もが年老いるが、だが必ずしも成熟するわけではない。
成熟とは内面の成長だ。

年を取ることはあなたがすることではない。年を取るとは肉体に起こることだ。生まれた子供はすべて時間が経てば年を取る。成熟とはあなたが自分の人生にもたらすものだ──それは気づきからもたらされる。完全な気づきをもって年令を重ねるとき、人は成熟する。年を取ることに加えて、気づくこと、経験+気づき、それが成熟だ。

あなたは2つのやり方で物事を経験することができる。まるで催眠術にかかっているかのように、無意識で、起こっていることに注意を払わないまま、あなたはそれを経験できる。物事は起こっただが、あなたはそこにいなかった。それはあなたのいるところでは起こらなかった。あなたは不在だった。あなたはただ通りかかっただけだ。それはあなたの中にどんな印象も引き起こさなかった。それはあなたにどんな跡も残さなかった。あなたはそれから何も学ばなかった。ある意味では、あなたはそこにいたのだから、それはあなたの記憶の一部にはなったかもしれない。だがそれはあなたの知恵にはけっしてならなかった。あなたはそのことを通してけっして成長しなかった。

それであればあなたは老齢化している。

だが、もしあなたが経験に気づきの質をもたらすなら、その同じ経験は成熟になる。

生きる方法は2つある。1つは、深い眠りのなかで生きることだ。そのときあなたは老化する。一瞬一瞬、あなたは年老いる。一瞬一瞬、あなたは死んでいる。それだけのことだ。あなたの一生は長く緩慢な死で構成される。だが、もしあなたが自分の経験に気づきを持たらすなら──あなたが何をするにせよ、あなたに何が起こっても、それに油断なくいて、見守り、注意深くいるなら、あなたがその経験をあらゆる角度から味わっているなら、その意味を理解しようとしているなら、自分に何が起こったのか、その深みそのものを洞察しようとしているなら、それを強烈にそして完全に生きようとしているなら──もしそうなら、それは単なる表面的現象ではない。それによってあなたの内面の奥深くで何かが変化している。あなたはより油断なく気づくようになる。もしそれが間違いであるなら、その経験をあなたは二度と犯すことはないだろう。

成熟した人は二度と再び同じ過ちを犯さない。だが、ただ年老いただけの人は、同じ間違いを何度も何度も犯し続ける。その人は一つの円の中に生きている。彼は決して何も学ばない。

もしあなたが怒りの体験を完全に生きたら、二度と再び腹が立つことはないだろう。1度体験すれば、それが愚で、バカげていて、単に愚劣なだと知るには十分だ──それが罪だというのではない、それは単にバカげていると知ったのだ。それならあなたは成熟している。翌日その状況が繰り返されることになっても、怒りが繰り返されることはないだろう。そしてそれは、成熟していっている人は、二度と怒らないでおこうと決心するようなことはけっしてない。違う。それは成熟していない人の兆候だ。成熟した人はけっして未来のために決断などしない。成熟そのものがその面倒を見る。あなたは今日を生きる。まさに生きること自体が明日がどうなるかを決めることになる──明日はそこからやってくる。

あなたの理解はあらゆる体験をつうじて成長している。

あなたはまるで催眠にかかっているかのように人生を生きることができる──それが99パーセントの人々が生きているやり方だ──あるいは、強烈に、気づきをもって生きることもできる。もしあなたが気づきをもって生きるなら、あなたは成熟する。さもなければあなたはただ老いるだけだ。そして老いることは賢くなることではない。

もし若いころあなたが愚か者であり、今あなたが年老いたのなら、あなたはただ年老いた愚か者だろう。それだけのことだ。何にもならない。ただ年老いるだけでは、賢くなることはできない。かえってさらに愚かになっているかもしれない。なぜなら、あなたの機械的習慣を身につけて、ロボットのようになっているからだ。

人生は二つの方法で生きることができる。もしあなたが無意識に生きるなら、あなたはただ死ぬだけだ。もしあなたが意識的に生きるなら、あなたはますます多くの生を達成する。死は来るだろう。だが、それはけっして成熟した人には来ない。それは年取って老いた者にしか来ない。成熟した者はけっして死なない。なぜなら彼は死によっても学ぶからだ。死さえも、強烈に生きられ、見守られ、許容された体験となることだろう。

成熟とは気づきだ。年老いることはただ自分自身を浪費しているだけだ。

(『Tao: The Three Treasures Volume 4』Osho)