日中は、瞬間ごとに光が変わり、瞬間ごとに、風が木々の葉をざわつかせ、枝をゆすります。私が絵を描くときは、この瞬間を捉え、それを表現することしかできません。次の瞬間には、太陽の位置が変わり、そよ風の吹き方が変わり、すべてが変わるからです。そして自然の中に不変を見つけようとして待つことはできません。それは決して起こらないのですから。
これは私には好都合です。私は動き続けるしかないのですから。これが私に人生とは何かを教えてくれます。だからこそ、絵がいつまでも私には興味深いものであり続けるのです。いつでも動く用意ができていなくてはならないのですから。過去にしがみついてしまうと、絵の命と私自身を殺してしまうことになります。
OSHOがまだ存命のころ、秘書の一人からメッセージを受け取りました。「私のダイニング・ルームに来なさい。あなたに見せたいものがある」
私は興味をそそられました。ほんの一瞬、OSHOと昼ごはんでも食べるのかと思いましたが、これはありそうにありません。実際、ダイニング・ルームに着いてみると、OSHOはそこにおらず、メッセージもありませんでした。OSHOが私に何を見せたいのかも分かりません。
それでも、私は彼のメッセージを受け取りました。そこに立って、彼が私に見せようとして招いたものが目に入ったからです。
彼のダイニング・ルームはバルコニーになっていて、大きなガラス窓がはまっています。そして外は彼の庭であるジャングルです。OSHOはジャングルのような庭が好きでした。庭師が少しでも剪定するのを好まず、すべてが自然に育つに任せていました。
草と植物の色が、ダークグリーンなので、バルコニーから見ると、ちょうど大きな水槽を覗き込むような感じでした。木々や植物が海の底に生えているようでした。
光は、ぼんやりとしていました。それは、木々や茂みが繁茂し、太陽の光をほとんどさえぎっていたからです。しかし、光の筋が庭に斜めに差し込んでいました。静かで透明な水の中をやわらかく光線が差し込んでいるようです。
庭の背後では、建設作業が行われていましたが、青い大きなビニール・シートが前にかけられ、向こう側が見えないようになっていました。このシートは風になびき、動いていて、その動きがさざ波のような効果を生み出していました。
そこに立って見ていると、OSHOの白黒の写真が、バルコニーの壁にかけられていて、それがガラス窓に映っているのに気づきました。
全体としての効果は本当に美しいものでした。半透明の光と動きが層をなし、お互いに重なり合い、移り変わり続けます。眺めやる瞬間ごとに、私は、ますます酔っていきました。なぜなら、深い理解が自分の中にあふれるように流れ込んできたからです。美にさらに美が重なり、神秘の層がさらに神秘の層に重なって、この生は成り立っているのだという理解です。
その瞬間、分かったことがあります。この絶え間なく進行し、刻々と変化する神秘の表現に終わりはないのだと。画家がしなければいけないことは、ただこころを空っぽにすることだけです。そして存在が与えてくれる豊饒に開き、そして「イエス」を言うことだけです。
ミラ「リ・アウェイクニング オブ アート」より
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