私は絵画を教えていますが、私のワークはこの芸術形態にとどまってはいません。
基本的に、私は個人の中にクリエイティビティのパワーを目覚めさせます。そして、このクリエイティビティをどのようにして、維持し、持続させるかについて、私の理解を分かち合います。
これが私の主な仕事です。それを私は絵画という媒体を使うことで行っているのです。このアプローチにより、人々は、自分の内側にあるビジョンを表現することを学びます。ビジョンは、意識していてもいなくても、誰もが所有しています。
ただ発見して、外に持ち出すかどうかだけなのです。
一度これができると、クリエイティブであることの喜びと満足は、人生のどの領域にも生かすことができます。絵画でも、床掃除でも、料理を作るのでも、お金をもうけるのにも、子供を育てるのにも。
同じクリエイティビティ、同じエネルギーの奔流、人生に対して「イエス」を言う、同じ経験なのです。
絵を描くことが大好きになった参加者は、自分の絵を育て続けるでしょう。実際に多くの人がそうしてきました。そしてもちろん、私がトレーニング用に選んだテーマだけにしばられることはありません。どの方向にでも進んでいくことができます。
では、私たちのこの新しい運動のもつ本質的価値とは何でしょう?
人間を正気にする美術(art)です。
クリエイティブな衝動も、独自の表現も、必要なものはすべて自分の内側にあることを思い出させてくれる美術です。
生命とつながる美術です。
人間がより深い気づきをもち、より意識的になるようにしてくれる美術です。
瞑想的な美術は前にも存在しました。それは、インドのタジマハールを生み出し、日本の禅の画家と神秘家の系譜を生み出しました。その中には、芭蕉、仙厓、白隠、一休がいます。
ここでは、私たちはそれ以上のことをしています。新しい統合を創り出しているのです。西洋に存在する生きることへの情熱と熱意を、東洋に存在する意識と瞑想の質に持ち込み、それらが出会い、溶け合うようにしているのです。
これが、美術を再び目覚めさせ、再生させるための扉を開きます。
それは努力なしの絵画です。あまりに簡単で、正確です。気づきをもって絵を描くと、失敗がないからです。この気づきは、新鮮さと命あふれる感覚、子供のような無邪気さを含んでいます。ですから、絵の一枚ずつがいつでもフレッシュです。
絵が死んでいません。生きています。エネルギーと命で脈打っています。高揚して、ときに眠ることができないことがあります。朝早く起きて、絵を描きたいのです。
毎日が新鮮さで満ちています。毎日、未知の中に身を投げ、そこで行われる発見に、興味をそそられます。絶え間なく新しい方法、新しいテクニックを作り出し、自分が科学者のような気がします。これは継続的なプロセスで、終わることがないように思えます。
このアプローチから生まれる絵画は、自分の目から見ても驚きで、自分の目の前で生まれる新しい絵のひとつひとつに頭を下げたくなります。このような瞬間、生きている意義を感じます。そして、このゾクゾクするようなスリルを他の人たちと分かち合うことができれば、その人たちも、自分のクリエイティビティを生み出し、そうすることで、この地球に自分独自の足跡を残すことができます。そうなることが私の最大の喜びです。
このふたつが私の最大の恋愛です。絵画と瞑想。自分の人生で、このふたつを組み合わせることができること。このふたつをミックスして、喜びにあふれた、あわ立つようなカクテルにして、皆さんに差し出すこと。これこそ、この上ない喜びです。
ミラ「リ・アウェイクニング オブ アート」より
存在と本当に同調する唯一の方法は創造的であることだ。あなたが何かを創造しているとき、それが何であろうとも——詩であろうと、歌であろうと、何かの音楽、何かのダンス、それが何であれ——いつであれ創造しているとき、あなたは存在に参加している。あなたはもはや存在から切り離されていない。実際は、あなたは消えており、存在があなたを通じて創造しはじめる。
そしてもしあなたがそのような瞬間を捕らえることができたら、もしあなたが、そこにはエゴが存在せず、あなたを通してただ創造が流れ出しているような稀な瞬間に気づいたら、そのとき創造性は瞑想的になる。
あらゆる創造者はそれらの瞬間を知っているが、ただぼんやりとだ。詩人たちは、詩がただ流れ出す瞬間があること、たとえ自分でそれを止めたいと望んでも流れ出す瞬間があることを知っている。また自分がただ枯渇して、何かを創造しようとしてもあるのは無味乾燥な言葉だけで、何ひとつやって来ないという瞬間もある。
努力すればするほど、可能性は小さくなる……なぜなら努力とは単にエゴの努力を意味するにすぎないからだ。
創造性はエゴが存在しないとき、あなたがくつろぎ、深く休息していて、何かをしようとする欲望がまったく存在しないときにのみ起こる。突然あなたは捕らえられ、何か見知らぬ力があなたを圧倒し、あなたを占領する。あなたが占領されるというのは、まさに正しい表現だ。
OSHO “Is the Grass Really Greener...?” Chapter#27
OSHOについて詳しくはこちらのサイトをご覧ください。