瞑想とは何か?
瞑想とは意識の状態です。瞑想の中では、私たちはその瞬間に対して開いて気づいています。くつろいだ楽なやり方でただ存在しています。それは私たちに本来備わっている体験です。実際、それは体験以上のものであり、存在しているということ、それが私たちなのです。それは私たちの本質です。私たちが自らを「human beings(在る人:人間)」と呼び、「human thinkings(考える人)」あるいは「human doings(行為する人)」とは呼ばないという事実に反映されているのです!

OSHOサマサティでの瞑想とは?



ただ在るという状態は自然なので、私たちは気づかないうちにそれに出会っています。自分が体験したことは瞑想だったと、気づいてすらなかったかもしれません。

たとえば瞑想は、あなたがハンモックに横たわって、小鳥のさえずりを聴いているときにも起こることです。あるいは静かな風景を眺めているとき、音楽を演奏しているとき、愛を交わしているとき、あるいはテニスをしているときにも起こります。(スポーツをする人々は、このスペースについてよく知っていて、それを「ゾーンにいる」と言います。それは実際にはどこでも - そう、病院やホスピスのなかでさえ - 体験できます。そのきっかけとなった状況がどれほど異なっていようと、そこには以下のような特徴があります ー

*内面と外界が「ひとつだ」という、くつろぎと調和の感覚。
*完全に今にいて、努力することなく気づいている。
*思考がもはやでしゃばってはいない。思考は普段より静かになり、少なくなり、もっとゆっくりになる。あるいは、完全に無思考になることさえある。
*問題だと思えていたことが、消え失せるまではいかなくても、遠ざかって見える。思考や感覚のみならず、肉体のさまざまな感覚、うずきや痛みについても同じことが言える。それを冷静に眺め、自分から離れたものとして眺めている。つまり、何ものにも「自己同化」していない。
*あるがままの直接的体験。
*自分の肉体を超えて拡大する感じ。自分を新しい仕方で、自分の物理的自己に限定されていないエネルギーとして感じる。高揚感を感じることもある。
*「これこそが真の自分だ」という感覚。
*時間に対する知覚が変わる。たとえば、この空間から出てきたら、時計によれば、ほんの数分しか経ってないと思うかもしれない。しかし、その中に没入していたときは、永遠のように見えた。

こうした瞑想の体験がどう感じられるのか、日常の言語にはこれを説明する言葉がありません。残念なことに、これは大部分の人々の日常の体験ではないからです。この、「意識的に在る」という体験を、「至福」あるいは「歓喜」と呼ぶ人もいます。この深遠な喜びを描写する最善の言葉は、「在ること」かもしれません。

とりわけ、あなたがたくさんの変化を体験し、自分には制御不能だと感じているときには、本来の自分を思い出し、意識的に在ることに戻ることが、あなたが手にすることのできるもっとも重要な鍵となります。

あるいは、あなたが内面やまわりで起こっていることで動揺したり、絶望したり、怯えているのであれば、自分自身の中にくつろぐことで、広い視野を取り戻すことができます。自分の肉体や精神から、他の人々から、時間や場所から独立していて、どんな状況にあっても触れられることのない自由を知るのです。
瞑想が自然な状態ならば、なぜ私たちはつねにその中にいないのでしょう? なぜ技法が必要なのでしょうか?
なぜなら、私たちのマインドが邪魔をするからです。私たちは、マインドを使わないで保留にしておく方法を忘れてしまったのです。そこで、マインドに内なる平安を見い出す邪魔をさせるのではなく、マインドの果たす役割とその性質を理解し、マインドに対する適切なアプローチの方法とタイミングを考察することが役に立ちます。そうすることで、私たちが瞑想するのに役立ちます。

瞑想するとき、私たちは(考えることや感じることも含んだ)行為するという側面から、自分自身のもっとも本質的な側面、在るという側面、意識の側面へと移動します。

「考えることとマインドフルネスと意識」では、「注意深く、気づいて、意識していること」と「何かについて考えること」の違いと、その重要性について説明しています。

瞑想法は、道というよりはむしろ、私たちが瞑想という自然なあり方に開いていくのを助けてくれる方法です。方法は瞑想が自分の生きた体験となり、もう必要ではなくなるまでは有益なものです。「瞑想法を選ぶ」では、あなたに効果のある方法の見つけ方を提案しています。

「特に重要な点」では、アクティブ(動的な)瞑想の必要性と、瞑想においてトータルさと同時に、無理強いしないことの重要性について触れています。

最後に、「瞑想の肉体的、心理的、霊的な恩恵」について読んでいただくと良いでしょう。
私たちが存在の中心、意識の中心から生きはじめるとき、私たちの質ー肉体的、心理的、霊的な質は変わります。もし瞑想のもたらす恩恵のほんの一部でも得られる薬があるとしたら、私たちはその薬を山盛り飲みたいと思うでしょう。

<瞑想をはじめるにあたって  - 初心者のためのガイドライン >

「死への窓としての瞑想」 - OSHOサマサティの提供するものは、生きることのみならず、死にゆくときにもより意識的であるための方法として、瞑想に強くフォーカスしています。この記事では、瞑想と死のプロセスの類似点のいくつかが説明されています。
内なる平安が欲しいときに、どうすればマインドが邪魔するのを止められるでしょうか?

OSHOサマサティにおけるマインドの役割


**「心(マインド)の平安」という言葉は、言葉の意味からして矛盾だ」と神秘家Oshoは言います。
** あなたは、マインドとは何にでもコメントせずにいられないものであり、体験
するすべてにたえず鼻を突っ込むということに気がついたかもしれません。


マインドの性質



マインドは眠っているとき以外、めったに私たちを休ませてくれません。たしかに、マインドが大いに役に立つのは間違いありません。けれども、マインドがあなたを乗っ取るときに問題が生じます。なぜなら、そのとき私たちがマインドを使うのでなく、私たちがマインドに使われてしまっているからです。あなたは自分がマインドの主人だと思いますか? 試しにこんな小さな実験をしてみてください。

目を閉じて、しばらく自分の思考を止めてください。ひとつの思考も割り込ませないようにして見てください。自分の内側に平安を見つけるのに全力で注意を傾けてみてください。

奇妙なことに、心を休ませようと努力すればするほど、心はますます騒ぎたてるのです。心は静まることができないのではなく、思考を止めることで平安になろうとするのは最善の方法ではないからです。自分の思考や感情を抑圧しても、自分の内面に闘いと葛藤を生みだすだけです。

以下に、そうならないために、マインドに対応するための、役に立つ4つの提案をあげてあります。


マインドのメカニズムを理解する


内なる平安を知るためには、私たちはマインド以外の領域、つまり意識へと入っていく必要があります。私たちは、考えることから在ることへ移行する必要があるのです。そのために、私たちはマインドをコントロールしたり、「手なづけ」たり、停止させたりする必要はありません。そうではなくマインドを理解し、その性質に習熟する必要があります。

しばらくの間、自分の心(マインド)を見守ってください。すると、マインドは観念や理論、議論、偏見、疑い、信念、夢、想像、熱望、そして喜びから絶望までのあらゆる感情を運ぶベルトコンベアに過ぎないことが分か流でしょう。

いくつかの点で、マインドは子供のようなものです。たえず活動し、知りたがり屋でもあり、たえずあなたの注意を求め、なんであれあなたがしていることに関わろうとするのです。もしあなたがとても活発な子供といるとしたら、あなたが賢明な親であれば、その子のエネルギーを止めようとはしないでしょう。その子のたえまない動きや好奇心は自然なもので、何らかの創造性や肉体の活動──たとえそれが、ただ家のまわりを走ることであったとしても──へと誘導することができると分かっているからです。自分のマインドが暴れているときにも、あなたは同じようにすることができます。


思考に注ぎ込むエネルギーの向きを変える


絶えざる思考の流れを抑圧しようとする代わりに、それに注ぎ込むエネルギーの向きを変えるのです。

たとえば、あなたが大切な面接のことで頭がいっぱいになっていたり、試験の結果が心配だとしましょう。マインドが興奮しても状況は悪くなるだけだと気づいたら、たとえばランニングとか水泳とか、テニスやダンスという、より有益なエネルギーのはけ口を見つけてください。掃除でさえ、マインドや身体の緊張を解放するための効果的で実際的な方法になりうるのです。

マインドが活発であっても身体のエネルギーがとても低い場合、つまり痛みを抱えていたり、寝たきりの場合には、別の選択肢が必要でしょう。そういうときには「ジベリッシュ」として知られている技法は、シンプルで効果的です。「ジベリッシュ」というのは、意味のない言葉をしゃべることですが、同じようなことをあなたも子供のころにやったのを思い出すかもしれません。(もし身近に子供がいたら、いっしょにジベリッシュをやってみてください。子供はこういうことが大好きなので、素晴らしい先生になってくれるでしょう!)
そのやり方を以下に説明します。

ジベリッシュ


10分かそれ以上の間、人に邪魔されない場所(そして人の邪魔にもならない場所)を見つけます。
それでは目を閉じて(外のものに気を散らされないように)、まさにジベリッシュという言葉のとおり、意味をなさない音を出し始めます。それは、自分が知らない言葉を話すようなものです。声を出している間、どんな意識的な努力もなしに、絶え間なく声が出るのにまかせ、自分が出したいだけ大きな声を出してください。(同室に患者や訪問者など、他の人がいる場合には声をひそめてやってください。)

と同時に、もし健康状態や場所が許せば、身体も動かしてください。腕を振り回したり、足踏みをしたり、頭を動かしたりします。あなたの顔の筋肉もしっかり動かしましょう。自分の普段の表現を誇張したり、しかめっ面をしたり表情を歪めたり、できることを何でもやります。

最初は少し照れくさいかもしれませんが、いったん中に入り込んで楽しむようになれば、そんなことは忘れてしまいます。ジベリッシュは実際に、人を傷つけることなく、意識的に蒸気を解放する方法です。それをやった後は、とてもすっきりすることに驚くでしょう。

目は閉じたまま、座るか横になるかして、ジベリッシュを続けてください。マインドが普段より静かになっていて、くつろいで落ち着いた感じがあるのに気づくでしょう。


マインドを友だちにする


マインドはあなたの人生のたくさんの部分を調整するのに使われるものですが、瞑想することによって、自然にマインドの影響から離れます。ですから、瞑想しようとするときにはいつでも──これはとりわけ、瞑想を始めるときに役立つことですが──マインドに休息してもいいと優しく伝えてください。そして、あとで戻ってきてもらうことを約束するのです。(私たちはみんな、必要とされているのだと知る必要があるのです!)あなたはこの休息によって、心身が恩恵を受けることが分かるでしょう。「マインドを超えるためにマインドを使う」を参照してください。


マインドフルネス:内側からのパワー


マインドに乗っ取られないためのもう一つの鍵は、ただそれを見守ること、それを観察することです(マインドフルネスとか「観照する」として知られてもいます)。するとあなたは、思考や感情のたえざる流れに気づき、それが自分とは別のものであると気づくでしょう。マインドを観察するのは、川が流れるのを観察するようなものです。それはちょうど土手に座り、川の漂流物に気づいているようなものです。

この場合、あなたは自分の思考を抑圧するのではなく、それに関わってもいません。「瞑想したいのですが、私のマインドはとても強力なのです!」と言う人もいます。実際のところ、私たちがマインドに関わりを持つところから、その感覚が生まれ、それによって、思考にエネルギーを与えているのです。あなたが協力しなければ、マインドはパワーを失います。私たちは思考に関わりをもつだけでなく、マインドがない自分など想像もできないほど、思考に自己同一化しているのです。ところが実際には、私たちが本当に「存在」できるのは、思考がないときだけなのです。

マインドフルネスの実践を続けていると、やがてあなたは、自分は思考ではないということを感じ取り、理解するようになります。思考はマインドによって作られたもので、思考はあなたではありません。あなたは主体であり、観察者です。あなたの思考や感覚は、その客体であり、観察されるものです。

いったん自分は思考ではない(そして、自分の感情や身体の感覚でもない)という理解が起こったら、あなたはもう自分のマインドや身体の犠牲者になる必要はありません。

マインドフルネスの詳細については「思考と感情、マインドフルネス、意識の違いとは?」をご覧ください。


マインドを超えるためにマインドを使う


マインドに内なる平安を見出す邪魔をさせないための4つの方法を見てきました。それは、マインドの性質を理解すること、マインドを友だちにすること、マインドを養うエネルギーを解放したり向きを変えること、そして観察者としてそれを見守ること、の4つです。

もしマインドの処理能力がそれほど高いのならば、マインドに瞑想でポジティブな役割を演じてもらうこともできるのでは?

ひとことで言えば、答えはイエスです。マインドは必ずしも瞑想に敵対的ではないのです。実際にいつくかの技法では、瞑想に入るためにマインドを活用します。たとえば、ビジュアライゼーション(視覚化)技法では、私たちは想像力を使います。マントラを唱えたり、数を数えたりする技法もあります。

瞑想を実践し始めようとするとき、マインドに味方になってもらうこともできます。たとえば、あなたが毎朝40分瞑想しようと決めたとします。その時間が近づくと、あなたのマインドは時間がないとか、いらいらするとか、やらないでおくための理由を見つけます。マインドのいいなりになったり、無視しようとする代わりに、マインドを自分の味方につけてください。

たとえば、マインドにこう言うのもいいでしょう。「最初1週間、毎朝5分だけやるのはどうだろう?」。マインドはおそらく「5分グラ雨だったらいいだろう」と協力してくれるでしょう。その週が終わるころには、おそらくあなたはマインドと新たな合意をすることもできるでしょう。瞑想時間を倍にする提案をしてみるのです。ここでもマインドの配慮を得て、あなたは瞑想時間を伸ばし続け、最初に計画した40分に到達することができるでしょう。


モチベーションを保つ


マインドは、あなたが瞑想のモチベーションを保つ助けとなることもできます。たとえば、もし今日瞑想する決意がぐらついたら、昨日座った後で、どれほど気分が良かったかを思い出してください。そのときも迷いがあったが、それでも瞑想してみたらとてもよかったということを思い出すのです。

また、ジム通いやダイエットといった新しい修養を始めたときのことを思い出すのもよいでしょう。やめようとする誘惑にもかかわらず、それを続けられたときのことを思い出すのです。
考えることや感じること、マインドフルネス、そして意識の違いとは何か?

思考とマインドフルネスと意識



考えること、感じることはマインドの活動です。「マインドの役割」で言及したように、十分に機能するマインドをもつことは素晴らしい資源となります。問題は、私たちが自分の思考や感情を自分だと思い込み、真の自己、つまり、「ただ在る」という平安を忘れてしまったり、まったく見出せなくなったときに起こります。

「意識」と「気づき」は、ひとつの状態を指し示す2通りの言葉です。意識または気づきは、私たちのマインドの状態である考えることや感じることが生まれる場所であり、それこそが私たちの存在の本質です。私たちが自分自身を思い出すと、たとえ思考や感情があり続けていても、それが自分から分離したものだと気づきます。思考や感情は、それに自己同化せずに「見守る」ことのできる、つかの間の現象だと気づくのです。


直接体験する


意識的であること、気づいていることは、「観照する」こととしても知られています。外の世界についての思考や感情、肉体の感覚、内面世界を内側で見守るということです。観照においては、私たちは実在を「曇りガラスを通す」ことなく体験します。つまり、思考や感情という曇りを通さずに直接体験するのです。


「サマサティ」と「マインドフルネス」は、思考や感情に自己同化しないで、それに気づいていることを表す仏教の言葉です。サマサティとは「正しく思い出すこと(正念)」と訳されます。それは、私たちが誰であるかを想い起こすことです。

「マインドフルネス」というのは誤った呼び方で、混乱をもたらしかねません。なぜなら、マインドの活動に気づいているとき、私たちはマインドがフルに(いっぱいに)なっているのではなく、マインドの外にいるからです。禅の表現である「無心」のほうが、意識のこの状態を表すのにもっと的を射ています。

私たちは、考えるかあるいは意識しているかのどちらかしかないわけではありません。瞑想によって私たちは、自分の思考や感情に対してより多くの気づきをもたらすことができます。そのとき、私たちはそんなものがあるとすら知らなかったような衝動や、あとで後悔するような衝動にかられて自動的に行為することはありません。私たちは環境や人々にやみくもに反応するのでなく、ふさわしい応答をするための充分な気づきがあるのです。これが「内なるマスタリー(熟達)」の意味することです。


「それについて考える」あるいは「それに気づいている」


日常において、ある状況や問題となりうるものについて考える必要がないという事例はたくさんあります。その代わり、私たちはただ、全面的な気づきをそれに向けることもできるのです。

ある友人が、この2つの違いを痛感することになったあるささやかな出来事を語ってくれました。

彼女の話とはーー

狭い道を大急ぎで歩いて、道沿いに右に曲がろうとするところでした。角を曲がるまさにそのとき、向こうからこちらに大きなトロッコが近づいてくるのが見えたのです。それを後ろから押している人もいれば、両側から引っ張っている人もいました。道の両側は灌木に覆われていて、互いにすれ違うような余地はほとんどありませんでした。

私のマインドは考え始めました。「あっちは真っ直ぐこっちに向かってる。道をゆずってくれるなんてことはなさそうだ。それともゆずってくれるかしら? 右からなら抜けられるかしら、それとも左? あっちは、どっちかに避けようとしてる? おしゃべりしたり笑ったりしてるけど、私のこと見えてるのかしら? 夢中になってて、ぶつかってくるんじゃない?」

起こっていることにすっかり気をとられ、私のマインドはさらに緊張してきました。どう解決したらいいのだろう? すると突然マインドが止まりました。自分が拡がり、くつろぐのを感じたのです。緊張の泡は弾け、私は人に囲まれたトロッコに向かっていました──無心でありつつも、自分の身体、その動き、トロッコとそのまわりにいる人たちをしっかりと意識しながら。

まるで言葉を交わさずに調和するダンサーたちのように、私たちは互いにすれ違いました。直前のあのごちゃごちゃした思考はすべて、マインドが止まった魔法の瞬間には、まったく不要なものだったのです(とはいえ、それは本当に意味のある洞察に導いてくれましたが)!


くつろいだ気づき


とてもくつろいでいるとき、私たちはたいていの場合無意識です。たとえばテレビの前で眠ったり、浜辺で日光浴をしながらうとうとしたり。一方で「注意している」とき、私たちは緊張しています(英語でat-tension:緊張にある=注意というように)。瞑想による気づきの状態では、この一見対立した状態がひとつになっています。意識しながらも完全にくつろいでいるのです。

たとえば、たった今、これを読みながら、気づきをゆっくりと自分の呼吸に移してみてください。あなたは呼吸を変えることなく、ただそれに気づいています。あなたには呼吸の仕方がわかっています。これまでの人生のなかでたくさん呼吸してきました。ですから、それについて考える必要はありません。呼吸を内側から観察するとき、マインドを持ち込む必要はありません。呼吸はただ身体に入ったり出たりしています。ここではフォーカスしたり、集中したりということについて話しているのではなく、ただやさしく、とてもゆったりした観察について語っています。受動的に内側を見守ること……見るということよりも、さらに受け身です……。すべきことは、ただそれだけです。


問題に対する関係を変える



私たちが直面する重要な問題は、
その問題を作ったときと同じ思考のレベルでは
解決できない。
(アルバート・アインシュタイン)


マインドのひとつの特徴とは、アインシュタインが指摘しているように、複雑さと困難を作り出すということです。

たとえば、あなたは「この病気はどう進行していくのだろう? 治るのだろうか? この、分からないという状態は本当に怖い。自分がコントロールできなくなるのは嫌だ。今でさえもうこんなに頭を悩ませてるんだから、これからいったいどうなるのだろう? もし人にいいようにされたら? 私の尊厳はどうなるのだろう?」などと考えるかもしれません。

病気になったことがある人ならだれでも、たぶん似たようなことを考えたことがあるでしょう。ただ考えることでそれに対処しようとしてもーーそれがつまり同じレベルで取り組むということですがーー問題を複雑にするだけです。その代わり、そういう思考がやってくるたびに、その思考も、そう考える自分も非難するのことなく、ただその思考に気づいてください。それに関わることなく、ただ観察します。土手にいて、川が流れていくのを見守るように。神秘家J・クリシュナムルティが説くところによれば、そうすれば「……その問題は、まったく違った意味を持つことになります。つまり、問題に対する自己同一化がもうないので、そこには判断もなく、それゆえ問題そのものが、その内実を明かし始めるのです。もしあなたがそれを絶えず、継続的にするなら、あらゆる問題は、表面的にでなく、根本的に解決されることでしょう」

実際、私たちが格闘している問題は、解決する必要がないということがわかってくるでしょう。ただ必要なのは、問題との関係を変えることだけです。自分は思考ではないーーこの思考は自分とは別のもので、川を漂う物のような、つかの間のものだということを覚えていれば、それが過ぎ去るにまかせる助けとなります。問題が生まれるのは、私たちがそれにしがみつくからで、それが川から飛び出し、私たちの膝に乗ってくるわけではないのです。


観察者というあなたの基本姿勢


私たちは、自分が思考や感情であり、マインドこそがそれに対処すべき唯一の場所なのだと信じ込まされてきました。ですから今までとは違ったアプローチを試すときには、忍耐強くあってください。徐々に、自分が思考や感情とは別だということを思い出すにつれて、あなたはこれを体験的に知ることでしょう。

とりわけあなたが元気がなくて、寝たきりだったり、痛みを抱えていたりしたら、ヴィパサナや洞察瞑想として知られる技法が、考えることから在ることへ、思考につかまっている状態から見守る者へと移っていくための、もっともシンプルな方法です。この技法では、呼吸が身体に入ったり出たりするのを、ただ観察します。

呼吸は身体活動であり、感じられる体験です。あなたは、息が入ったり出たりするときの鼻の穴の微妙な感覚や、胸や腹がふくらむのを感じることができます。それはまた、最小限のエネルギーしか必要としません。呼吸の存在と、それを見守るあなたの能力だけです。

その後であなたは、シャワーを浴びたり(あるいはシャワーを浴びさせてもらったり)といった日常のその他の活動、たとえば子どもの朝食を作ったり、街を散歩したり、電話での会話といった動作を見守るかもしれません。そういったものは具体的な体験なので、見守ることはより簡単です。

マインドを見守る、思考や感情の往来を見守るのは、概してもっと困難です。思考はつかの間のもので、すばやく動きがちなので、それから自由になるには忍耐が必要です。感情は移り変わりが激しく、つねに──それが愛であっても激怒であっても──あらゆるものを含みかねません。それもまた、さらなるチャレンジとなります。

もしあなたが思考や感情にもっと気づくようになりたいのなら、いきなり深みに飛び込むのではなく、たとえば小さなイライラから始めることです。嫉妬の炎が燃えているときに、冷静で、穏やかで、落ち着いていようとするのではなく。
こんなに多くの種類の瞑想があるのはなぜでしょうか? どのように適切な技法を選ぶべきでしょうか? そして瞑想が上手くいっているどうかをどう知るのでしょうか? どんな活動もある種の瞑想になるというのは本当ですか?

瞑想法の選び方と実践のアドバイス



私たちは、本当は「瞑想法」を意味しているのに、「瞑想」という言葉を使うことがあります。たとえば、「私は瞑想するぞ」と言うかもしれません。「瞑想する」ことは不可能です。なぜなら、瞑想とはある状態であって、するものではないからです。それは私たちが何もすることなく、ただ存在している状態です。

さまざまな瞑想法は、私たちの邪魔をするあらゆるもの──ストレスや恐れ、不安、焦り、自己愛や信頼の欠如──を超えて、ただ在ることのなかへと入っていく、さまざまな方法を提供しています。それは、意識的であり、オープンで、私たちの身体や思考や感情に対する自己同一化から自由です。つまり瞑想法とは、もっとも深い本質において私たちの本当の姿を思い出させてくれるのです。

瞑想法は、神聖さとは関係ありません。それはただ、実験するために科学的に考案された「道具」なのです。何百もの異なる瞑想法のなかの、少なくともいくつかを知っておくのが役に立つのは、私たちがみんなとても異なっているからです。あなたに合うものが、あなたの友人やパートナーに合うとはかぎりませんし、また現在あなたに合っているものも、3ヶ月それを実践した後では必要でなくなるかもしれないのです。

瞑想法によっては、そのための時間を別にとる必要がありますが、直接日常生活に取り入れることができるものもあります。多くの瞑想法は受動的ですが、中には動いたり声を出したりするものもあります。


瞑想法の選び方


以下の3つの指針を考慮してください。

1)瞑想のための時間をとれるのはいつ(あなたが、日常の仕事とは別に時間を取る必要がある瞑想法を選ぶ場合)で、どれぐらい時間を割けるか──10分か40分か60分か?

2)あなたのエネルギーレベルが最高なのはいつでしょうか? 人によっては朝の始まるころです。けれども人によっては、それはエネルギーが最低のときです。

もしあなたが病気だったり、寝たきりであれば、もちろん自分のエネルギーレベルや動ける範囲で可能な技法を選んでください。ほんのわずかしかエネルギーがないときでも、実践できる瞑想技法はたくさんあります。たとえば、ジベリッシュや、呼吸を見守ることなど。

3)あなたの動機は何でしょう?

なぜあなたが瞑想したいのかという理由は、どんな瞑想技法を選ぶのか、どれがより効果的なのかということに影響するでしょう。ことによると、あなたは慢性的なストレスを感じているのかもしれないし、何か人生が激変したり、危機の時期にあるのかもしれません。もしかしたら強烈な感情、不安や落ち込み、怒りといった感情に対処しているのかもしれません。自分の人生には何かが足りない、という漠然とした感じがあるのかもしれないし、人生の意味を探しているのかもしれません。もしかしたら、あなたは自分が演じているさまざまな役割──両親、友人、子ども、配偶者、兄弟姉妹、患者、介護人といったもの──すべてを超えた、本当の自分を見つけたいという欲望に駆り立てられているのかもしれません。友人に瞑想を勧められたり、瞑想が役に立つと本で読んだのかもしれません。

……でも、ちょっと待って!

あなたがくつろぎたいとか、免疫機能を活性化したいとか、ある目的をもって瞑想するとすると、何かを手に入れようとするその期待そのものが、あなたの瞑想の実践を妨害してしまいます。

これは逆説です。私たちは理由があって瞑想しますが、瞑想の中では結果へのあらゆる欲望を脇に置いておく必要があるのです。その代わりに、瞑想それ自体を楽しむようにしてください。あなたがシャワーを浴びるのは、身体をきれいにするためで、それがその目的です。けれども、冬にお湯に浸かったり、夏に冷たい水を身体に降り注ぐ快感、石鹸の香りや肌の上をすべる水の感覚そのものが楽しみではないでしょうか? それは、定期的にシャワーを浴びることと同じぐらい重要な動機となるのではありませんか?

そして、瞑想状態はゲストだということ、しかもはにかみ屋のお客さんだと知っておくのが役に立ちます。瞑想の体験を要求することはできないのです。私たちに喜んで待つ意志があるときしか、それは起こりません。私たちがオープンで、受け身で、くつろぎながらも気づいているときにしか、それは起こらないのです。

*ある技法が自分に合うかどうか、どうしたら分かりますか?

ある技法を試してみたいと思ったら、少なくとも7日間はやってみてください。7日目までには、内側で「ピン」とくる感じがするか、あるいはそうでないかで分かるでしょう。

いったん自分の技法が見つかったら、少なくともそれを3ヶ月間、定期的にしてみることです。(その技法が無意識に影響を及ぼすには、それぐらいの時間がかかると言われています)。他の日課と同じように、あなたがその瞑想のために決まった時間をとって、それを厳守すれば、マインドは協力してくれるでしょう。「はじめるにあたって」を参照してください。

*その瞑想法が上手くいっているか、どうして分かりますか?

その瞑想法に没頭して瞑想しているときだけでなく、日常の生活のなかのあり方においても、あなたにはその効果が感じられるでしょう。それがあなたの意識に影響を与えるようになれば、自分にも人にもわかるような変化が現れるでしょう。定期的に瞑想している人々は、よりくつろぎを感じると言います。この瞬間にもっとしっかりといて、忍耐があり、毎日の暮らしのなかの小さな喜びを敏感に感じるのです。より理解が増し、自分や人に対してもっと思いやりを持つようになり、周りの世界へのより大きな感謝に満ち、つながりの感覚をもつようになります。

*いったん選んだ技法を、いつやめたらいいのでしょう?

3ヶ月はやってみることをお薦めします。そのあとで、その効果が自分や人との関係、さらに日常の状況への対処の仕方に統合されていたら、瞑想はその役を果たしたことになります。3ヶ月たてばやめてもかまいません。もちろん、そのあとも続けてもいいのです。あるいは、別の瞑想法を試したくなるかもしれません。


「瞑想は良いものだ。それは薬のようなものだ。薬は、あなたが病気のときには必要だ。健康なとき、薬は超えていくべきだ」(Osho)


*どんな活動も一種の瞑想になるというのは本当ですか?

以下の3つの要素を加えたら、どんな活動でも瞑想になります。

*リラクゼーション
*気づき
*ジャッジしない態度

たとえば、あなたが毎朝散歩するのが好きだとしましょう。それを単なる運動から瞑想体験へと変えるためには、くつろいで歩きながらも、同時に油断なく気づいていることです。物思いにふけりながら歩くのではなく、その瞬間にいてください。何よりも、自分に関することであれ、自分や他人との関係であれ、比較したり批評したりというマインドの癖にはまらないことです。何であれ、在るものは在るのです!

食事をすることも、騒音や人々の活動に取り巻かれて病院のベッドに横たわることも、シャワーを浴びることも、あるいは入浴させてもらうことすら、瞑想的なものになりうるのです。
この3つの要素を加えれば、あらゆる何気ない行動に、まったく異なる質がもたらされるでしょう。

その場まかせでありたければ、私たちのHPの「今日の瞑想」を試してみては?


瞑想法を選ぶ助けが必要だったり、瞑想の実践について質問があれば、私たちにコンタクトをとってください。
気づきとともになされる活動ーー過ぎゆく感情を見守ることや、全面的にかかわることが、受動的な瞑想を実践する前になぜ役に立ちうるのでしょうか?

瞑想を実践するにあたっての重要なポイント



あなたが実践するものとしてとても受動的な瞑想──呼吸を見守る、呼吸の合間を観察するといった瞑想──を選んだ場合、身体が落ちつかず、普段よりも頭が騒がしいと気づくかもしれません。仏陀のような、至福に満ちた感じがないばかりか、がっかりしてやる気を失う結果になるかもしれません。「瞑想は自分には向かない」と結論を出すこともありうるでしょう。

受動的な瞑想は、2500年以上前、人々が日常生活において私たちよりずっと活動的だった時代に創案されました。さらに、彼らの生活はもっと素朴で、今日の私たちが知るような感覚的刺激を浴び続けることはありませんでした。そのため、ずっと昔の人々にとっては、思いのままに座り、じっと静かにしていることはずっと容易だったのです。しかし私たち現代人に大半にとっては、こうした単純な行為はとても難しいのです。


身体に向かう


マインドを沈黙させたり、身体をじっとさせようとがんばる代わりに、受動的な技法を行う前に身体を動かすことで、マインドや身体の落ち着きのなさを解放することができます。「瞑想法を選ぶ」でも述べたように、そこにある一定の質を加えれば、どんな活動も瞑想的になるのです。

ですからたとえば、座る前に走ってみるのもいいでしょう。あるいは5分から10分、音楽をかけてダンスをしてから座ってください。あるいは「マインドの役割」で触れた、意味をなさない言葉をしゃべるジベリッシュという技法をしてみてください。

アクティブついての詳細は、www.activemeditation.comwww.osho.com をご覧ください。


退屈と至福


今やっている瞑想の実践に対する目新しさがなくなると、あなたには退屈になるときもあるでしょう。子どもと同じで、マインドは好奇心いっぱいで、つねに新しいものを探したがるのです。「考えることとマインドフルネスと意識」で見たように、マインドはまた、問題を作り出す傾向があります。あなたが瞑想しているあいだ、演じる役割がないので、マインドは退屈するのです。それがマインドの性質であると理解して、くじけずに瞑想を続けてください。

私たちはみんな、痛みや不毛な時間、悲しい時間に対しては超然としていたいと思います。しかし、だれが幸福な時間や楽しい体験に対して超然としていたいと望むでしょうか? 瞑想によって気分が高揚すると、あなたはもう一度それが欲しくなります。それでエゴを膨らますことさえあるでしょう。

思い出してください、あらゆる体験はマインドのものです。そして私たちはマインドを超えた領域に行こうとしているのです。

そして

思考や感情、肉体の感覚に自己同一化しないことを学ぶためには、「ポジティブ」なものから、つまり楽しいものから始める必要があります。


押しつけない


瞑想していると、マインドの古い習慣を痛切に感じることになるでしょう。たとえば、あなたは自分と競争し始めるかもしれません。瞑想において、どれくらい長く座っていられるかを見てみようとしたりするのです。昨日よりいい記録を出せるなら、たとえ身体が痛くなろうと、限界を超えようと自分を急き立てかねません。(もちろんマインドは、瞑想をほとんど始めてもいないうちに、もう限界だと言って、瞑想に向かおうとするあなたの意志をくじくこともあるでしょう)。


それでもやる


瞑想の実践において成功を約束するキーワードが1つあるとすれば、それは「全面的であること」です。あなたは技法を完璧にはやらないかもしれませんが、もっと重要なのは、あなたが自分の持てるすべてを尽くしてそれを実践することです。どれほど長く瞑想しているのかは、あなたの関与の程度ほど重要ではありません。

ですから、例えば、あなたが瞑想でダンスしているときは、本当に踊ってください。 ──心の中で、瞑想が終わったらやろうと思っているまったく別なことなどを思いながら、ただ機械的な動きで体を動かすのではなく。その瞑想があなたに変容的な影響を及ぼすには、それぞれの瞑想法において、あなたはその瞑想とともにある必要があります。あなたの存在の全てのレベルで没頭することと、全身全霊で打ち込むことです。

その瞑想法の説明の指示に従ってください!それらの指示は医者の処方箋のようなものです。勝手に即興で変更してはいけません!とはいえ──自分の体調にチューニングして、自分自身の状態を見ながら、自分自身を評価し、判断してください。──どれくらい力を出すかとか。トータルであることと自分の肉体に害を及ぼすほど過剰にやり過ぎることとは違います。

実践しているうちに、あなたの気づきと感受性のレベルが高まり、信頼できるバロメーターとして機能するようになります。それと同時に、あなたにしがみついていた、マインドが邪魔をするという習慣も、緩みはじめるでしょう。
自分の存在の中心から生きはじめると、私たちはあらゆるレベルで質的に変化します。瞑想のメリットのいくつかをお読みください。

瞑想の恩恵



生理的影響


科学的研究に裏づけられて、瞑想実践がリラックスの効果的方法であることは確証されています。定期的瞑想は、(血液中の乳酸塩レベルを低下させることによって)不安発作を軽減することが示されています。ストレスやストレスに関連する筋張を予防/軽減し、血圧やコレステロールレベルを低下させ、免疫機能を高めます(瞑想は、細菌や癌細胞を殺す「ナチュラルキラー細胞」の活性を増加させます)。慢性疼痛を管理し、心臓病患者の運動耐性を高め、心臓病を無効にすることさえあります。

瞑想はまた、セロトニンのレベルも上昇させます。セロトニンの低レベルはうつ病、肥満、不眠症および頭痛に関連します。セロトニンレベルの上昇は術後の治癒にも役立ちます。肉体の再生能力や、解毒と排泄のプロセスを支援します。このことはストレスの軽減とともに、健康を維持し、老化プロセスを遅らせるのに重要です。

サイコスピリチュアルエフェクト(心理的霊的効果)


主要な恩恵は、これまで私たちの無意識の地下室に隠れていた部分──例えば、私たちの行動の大部分を駆動できる無意識の衝動や反応。私たちの条件づけの一環として植え付けられた考え、信念、偏見。そしてトラウマや他の人生の経験を通して集めた傷──に“光を当てる”気づきの増大に違いありません。

人格のそれらの側面を明るみに出しながら、瞑想者はそれらをすべてただあるがままの「側面」として観察することができ、自分自身をその心と身体の両方より遥かに広大なものとして思い出すことができます。

自分自身をより親密に知ることは、私たちの潜在的可能性を認識し、自分にとって正しい人生の方向に進むための明晰性を与えます。グラウンディングして中心が定まっている感覚は、内的な安定性と統合性を生み出し、それとともに自分の夢に向かって進む勇気と創造性を生み出します。

私たちは、リラックスして開放的であるためのより大きな能力、受容的で思いやりのあるより大きな能力を知ることができます。自己受容、自己信頼の尊重、愛、そして一体感は、自然にあらゆる形態の人生に対する感謝と尊敬につながります。

過去や未来をあれこれ考えるのではなく、その瞬間に満足することや、喜び、遊び心、感謝は、瞑想のその他の副産物に含まれます。

瞑想は気づきを高め、感受性を深めます。このことは、(過去を反省したり、未来を心配するのではなく)この瞬間に在る能力の増大と、それぞれの瞬間を大切にする能力の増大を意味します。

通りすぎる思考や感情や感覚の世界を、内側から穏やかに観察する能力によって、人は自分の感情的な現実を自己規制して、それに責任を取ることができるのです。さらに、受け容れることは、思考や感情や身体感覚と「ともに在ること」をサポートします。

センタリングは、自分の内部の中核、つまり内部の安定性、完全性、統一性とのつながりの感覚を与えます。 「意識の中に身を置く」、すなわち静寂と沈黙の内部空間に身を浸すことは、自分自身の不変の側面の経験を提供してくれます。

定期的な瞑想実践はまた、より大きな自己知、自己信頼、自己受容、敬意、愛といった、あらゆる形態の生命や環境に及ぶ資質をも生み出すでしょう。瞑想はマインドのタイムアウトを許すため、瞑想者はより効率的で創造的なマインドを持ちます。

明らかに、瞑想は、充足した人生のための基本的資源です。その価値は、自分が病気になるとか、自分や自分が愛している人の死に対処するといった危機への対応を含む、人間であることのあらゆる側面に及んでいます。

私たちはすべてユニークなので、特定の結果がいつ経験可能になるかを予測することはできません。しかし、もし瞑想が深い影響を与えているなら、あなたはあらゆるレベルでその影響を経験することになります。


瞑想の科学的研究


瞑想が私たちの心身に及ぼす影響に対する関心は、以前は懐疑的だった科学界で次第に増大しつつあります。以下は、私たちの身体的および心理的幸福の四つの側面に関連する研究の概要です。

冠状動脈性心臓病(CHD)


「Circulation:Cardiovascular Quality and Outcomes(循環:循環器の質と成果)」(2012年11月号)に掲載された研究は、瞑想実践が健康を維持するのに役立つという瞑想者の主張を検証した。この研究では、201人の冠状動脈性心疾患患者が、(a)より良い食事と運動の促進クラスか瞑想クラスのいずれか選ぶように求められた。研究者は参加者をその後5年間追跡調査し、瞑想クラス受講者の心臓発作、脳卒中、死亡の全体的なリスクが48%低下していることが判明した。初めての研究だが有望な研究だ。(「タイム」誌)

創造性


先に、瞑想が創造性を高める可能性があることを指摘した。オランダのライデン大学の研究者は、瞑想の2つのタイプ──焦点を合わせた注意(例えば、自分の呼吸にフォーカスする)とオープンモニタリング(参加者が内面と外面の両方に焦点を合わせる)──の 新しいアイデアの創出能力と問題解決能力という2種類の創造思考への影響を考察した。「Frontiers in Cognition」(2012年4月号)で発表された研究では、集中注意瞑想を実践した参加者は、2つの創造性課題において改善結果を示さなかったことを明らかにした。しかし、オープンモニタリング瞑想を実践した人は、新しいアイデアを思いつくことに関連した仕事で、より良い成績を収めた。(「Meditation Research」誌)

情報処理


UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)の研究者は、何年も瞑想してきた人々の脳を、いちども瞑想したことのない人や短期間しか瞑想していない人の脳と比較研究したいと考えた。彼らは、瞑想者と非瞑想者を半々にして計100名のMRIスキャンを実施した。彼らは、長期にわたる瞑想者がより高いレベルのgyrification(より速い情報処理との関連が考えられる大脳皮質の折り畳み)を示したことに魅了された。 「Frontiers in Human Neuroscience」(2012年2月号)で発表された研究では、瞑想してきた年数が長ければ長いほど、その人のMRIでより多くのgyrificationが判明した、と公表された。[UCLA Newsroom]

マルチタスキング(多重タスク処理)


気を散らすものはいたるところにあるが、瞑想は人がその中でより上手に操縦するのに役立つのだろうか? ワシントン大学のあるコンピュータ学者が、アリゾナ大学の神経科学者とペアを組んでこれを検査した。45人の人事管理職を募集し、その3分の1にはマインドフルネスをベースにした8週間の瞑想訓練を行い、3分の1には8週間の身体リラクゼーション訓練を行い、残りの3分の1には何の訓練も行わなかった。それらのグループの全員に、その検査の前と後に8週間の緊張の多い多重タスク処理を課した。2012年5月に公表された「Proceedings of Graphics Interface(図形処理インターフェース会報)」で発表された研究では、マインドフルネス瞑想グループは、他の2つのグループより多重タスク処理テストの実践で、緊張がより少なかったと報告された。「Washington.edu