以下の状況にある人々のために

健康なうちに死についてじっくり考えたい人。
死という事実に向き合う。

死の本質についてなど、自分の死に向き合うことに関するリンク。
たくさんある課題のひとつである恐れについて。
死が近い人に対し、その事実を伝えるべきなのか。
死に向き合う道としての瞑想、そうしたことに関連する情報など。

差し迫った死に直面する−末期の診断を受けたあとに
意識的に死ぬために。

直面することになる課題にどう対処するか、人生におけるこうした大切なステージの情報へのリンク。

死にゆく人とともに在ること、ケアの仕方

死にゆく人を訪問するに際して、親密な関係を作ることやその他のコミュニケーションのヒントなど。

瞑想のガイド法。

介護者である自分のケアの仕方など、
たくさんの情報があります。


上に述べたすべてに共通する課題はたくさんありますが、もっと直接的なヘルプを得るためには下記のセクションに進んだほうが役に立つかもしれません。

瞑想と、意識的に死を迎えること
死にまつわる課題と感情
死に関しての記事
計画すること、実際的であること
死についてのワークショップ
死にゆく人を訪問するためのガイド
死に関するツール
その他の情報


瞑想と意識的に死を迎えること



なぜ瞑想するのか?

何が死ぬのか?


「死」とはいったい何を意味するのか?
死んでいくものは何なのか?


死が存在する証拠は、毎回吐く息の中にあります。
けれども、呼吸と身体の関係の中でしか死を語れないというのは本当でしょうか?

呼吸の停止を見守り、医師は死を宣告します。その人の心臓は止まり、もはやコミュニケーションもできず、この世の一部ではなくなり、生命の一部ではなくなるのです。

ベッドの周りにいる人々にも、それはわかっています。目で見える世界を超えたところで何が起こるのかは、私たちと同じく、医者にもわからないのです。

神秘家は死について、とても違った見方をしています。

彼らによれば、私たちは心と身体以上のものです。

私たちの目に見えるものは単なる器(うつわ)であり、そのなかに、意識としての私たちが生きているのです。

その器には「使用期限」があって、その期限が過ぎれば、それは死にます。

その意識は、人間と呼ばれる包装から独立して存在しうるし、存在しているのです。


私は医者ではなく、神秘家に賭けます。なぜなら...。

多くの人が、神秘家のような考え方などまったくしていなかったのにもかかわらず、身体から離れても自分が存在しているという事実、身体の外に生命があるという事実を個人的に立証しています。

彼らは車の衝突や手術台の上、あるいは深い瞑想のなかで、自分の身体を離れるという体験をしています。

身体が地面や劇場に横たわっているのを見ることさえできるのです。

ただ「自分の身体に戻りたい」と思っただけで、彼らはすぐに身体に戻ることができたのです。

もちろん、そうした経験は死の恐れを取り除きます。
身体の死が、自分の存在の終わりではないことが明らかになるからです。

この理解を分かち合うのに、自分の体外離脱体験を待つ必要はありません。

瞑想者である私たちは、定期的・自発的に、物理的な自己ではない、肉体的・精神的な自己よりはるかに広大な自分を経験するスペースに入ります。

それは、「私は静寂と不動なるもの……大いなる平安を経験し、とてつもない広大さを感じています」という言葉でさえ、言い表せないスペースです。

その「私」そのものが蒸発するのです。

静寂の中に、境界をもたない平安の中へと溶けていくのです……そこには、身体や心、人格、時間や空間などの定義はありません。

本当にそれを手に入れるには、そこにいる必要があります。

OSHOサマサティのアプローチは、経験を重んじます。

あなたは身体ではないという信念によって慰めを与えようとするのではありません。あなたが自分で体験できる方法を提供しているのです。

あなたがこのテーマに関してどんな情報に出会おうと、自分自身で味わってみるまでは、とりあえずの仮説として受け取ってください。

「もしかしたらそうなのかもしれない。自分で試してみて、自分の経験を通して見てみよう」という態度でいてください。

私たちが提供するもっとも基本的な瞑想技法のひとつとして、「呼吸を見守る」ことがあります。

これに関するテクニックはたくさんありますが、とても単純で、努力もほとんどいらないので、ここから始めるのがいいでしょう。

1回に少なくとも40分座り、それを3ヶ月ほど練習します。

大切なのは、何の期待ももたずにすること。

ある経験が起こることを待つのではなく、科学者のようにオープンな態度で、最善を尽くすことです。