死に向き合っている人のために。終末期を迎えた人を気遣う周りの人に役立つ情報も多くあります。介護をしている人は「介護のツール」をご覧ください。

こうした方たちのために:


死が起こるときには、沈黙しなさい。見守るのだ!
今は(死について)話すときではない、今こそ死と在るべき瞬間なのだ。

(Osho:『And the Flowers Showered』)

最後の日々

もしあなたの愛する人が、あと数日しか生きられないというときに、このウェブサイトに来たなら、その人にとっても、サポートしているあなたにとって、もっともためになる情報をここで見出すでしょう。

ここにあったら役に立つのに、と感じる情報が何かあれば、どうぞお知らせください。


 Oshoのガイダンス
 「死に向き合うツール」より
 瞑想ライブラリーより
 亡くなった後


Oshoのガイダンス


死に際して、気づきを保つ助けとなるもの


Oshoは、死のプロセスの中にありながらも気づきを保つ助けとなる工夫や「小道具」について語っています。

「死にゆく人を目覚めさせておく、多くの方法がある。たとえば、ある特定の芳香、匂いが人を無意識にするように、ある特定の香りは、人の意識を保つ助けとなる。

香やベンゾイン(安息香)が発見されたのは、おもに、人を目覚めさせておくのに役立つからだ。

ある種の音楽をそばで奏でることで、その人の意識を保つことができる。また、人をぐっすり眠らせるような音楽もある。あなたを眠り込ませる音楽もあれば、目を覚まさせる音楽もある! 

ある言葉、あるマントラを唱え、その人が目覚めたまま、眠らないように助けることもできる。

死にゆく人が眠りこけてしまわないように、身体のある部分を軽く叩いて、意識を生き生きとさせておくことができる。

眠りに落ちるのを妨げ、意識を保たせておくために、その人をある姿勢で座らせることも可能だ。

(Osho『And Now And Here』)


死にゆく人に対して、Oshoはこう提案します:


「起こるがまま、ただすべてを手放しなさい。くつろぐことだ。敵意を持たずに、死を人生の頂点として、自然現象として受け入れてごらん。

最後には無になるのだ。意識を保ち、起こっていることを見守りなさいー身体がどんどんとあなたから遠ざかっていくさまや、落ちた鏡が粉々に割れるように、マインドが散り散りになり、あなたの感情やムードや……あなたの人生を織り成していたすべてが消え失せていくさまを。」

(Osho『神秘家の道』)


あなたに安らぎと静寂の空間の中へと誘導してもらうことは、死にゆく人にとって大きな助けになります。

「病人や死にゆく人のためにガイド瞑想をリードする」を参照してください。

ガイド瞑想「OSHO Bardo」もダウンロードできます。(日本語版は準備中です)
この「OSHO Bardo」は日常のリラクゼーションのため、とくに死を迎えるプロセスにある人に有用なものです。

Oshoの提案は、サポートをしている人(親族や友人)にも役立つでしょう。


*静かに、敬意を持ち、見守る


「まず第一のこと:死がそこにあるときには、とても敬意を払う必要がある。死はまったく普通ではない現象だからだ。それはこの世で、もっとも尋常ならざる現象だ。

死ほど神秘的なものはない。死は存在のまさに中心に達する。人が死ぬとき、あなたは聖なる大地を踏みしめている。死は可能な限り、もっとも神聖な瞬間だ。普通の好奇心は許されない。それは、不敬なことなのだ。

「あなたは静かでなければならない。もし死がそこにあるときに静かでいられれば、突如としてあなたはたくさんのことを目にするだろう。というのも、死とは、人がただ呼吸を止めるだけではないからだ。たくさんのことが起こっている。

人が死ぬとき、彼のオーラは収縮し始める。もしあなたが静かならば、それが感じられるだろう ー エネルギーの力、生命エネルギーの場が弱まり、中心へと戻っていくのだ……

ヘソに至ると、それは集中したエネルギー、または集中した光になる。もしあなたが静かなら、それを感じられるし引力を感じるだろう。

死んだ人の近くに座れば、あたかもかすかなそよ風がその死んだ人に向かって吹いていて、自分が引き寄せられているかのように感じるだろう。死んだ人は、自分の生命のすべて、彼がいた「場」全体を収縮させているのだ。」

(Osho 『And the Flowers Showered』)


*意識であることを認める


Oshoは、友人や身内の誰かの死が近いときには、その人は肉体ではなく(死にゆく人にとって、これを理解するのは容易だ)純粋意識なのだと理解するのを助けてあげなさい、と言っています。

今こそ死に対し、その人を十分に気づかせるべき瞬間 ー「純粋な意識が体験されるほどに強烈に、一分の隙もなく気づかせるべき瞬間」だ。死にゆく人が、肉体は死んでゆくが、自分はその体験とは別だと気づいていれば、その人にとって死はなく、永遠の生があるばかりだ。

(Osho 『The Razor's Edge』)


*瞑想のエネルギーで死にゆく人を取り巻く


「誰かが死を迎えようとしている、死期が迫っているときには……瞑想に深く入ることができる人たちは、周りに座って、その人を助けるべきだ。そして、無の中に消えていく、その存在と関わりを持つのだ。

人が無の中に消え失せるときには、大いなるエネルギーが放出される。その人を取り巻いていたエネルギーが解き放たれる。もしあなたがその周りで静かにしていれば、あなたは素晴らしい旅をするだろう。

その人はおのずから、大きなエネルギーを解き放っている。もしあなたがそのエネルギーを吸収できれば、あなたもまた、ある意味で彼とともに死ぬのだ。そしてあなたは、究極をー源と終点、始まりと終わりを見る。

(Osho『般若心経』)


*呼吸を見守る


「死にゆく人のそばで瞑想するもっとも簡単な方法は、ベッドに横になるか、脇に座ることだ。あなたの手を、その人の頭に置くといい。とても静かになり、瞑想的でありなさい。」

「その相手に、ただ呼吸を見守るように説明してあげてもいい。息が入り、息が出ていく。もしそれができれば、その人は自分が肉体でもなく、呼吸でもないことに気づくだろう。その人は、見守る者なのだ。」

「最後の日々、あるいは数時間、死にゆく人が見守ることを助けることができれば、それはその人が立ち去る前に与えることのできる最大の贈り物になる。なぜなら、そのとき彼女はまったき静けさの中で、完全に落ち着き、穏やかな状態で死んでゆくことができるからだーそしてそれこそが、本当の死に方なのだ」

(Osho 『The Madman's Guide to Enlightenment』)


*安らぎのトランスミッション(伝達)


「もし近しい人(あなたの父親や母親、あなたの妻や夫、子供あるいは友人)の死が近くて、それに関わるような何かをしたいと思うなら……。

その人は亡くなろうとしていて、あなたは生きている、そんなときには、その人のそばに座るといい。あなたの手を、その人のハートの上に置いたり、手を握って、ただ静かに、安らいでいるといい。

あなたの安らぎと静けさは伝わる、伝達される。もしその人が安らかに静かに逝くのを助けられれば、あなたは素晴らしい行為、美徳の行為をしたのだ。

あなたは少し元気がなくなったり、疲れや消耗を感じるかもしれないが、それは何でもない。すこし休めば、すっかりよくなる。」

「……基本的には、あなたがその人を愛していれば、その人に対して、感じるところがあれば、あなたは彼にエネルギーを注ぎ込むことができる。今こそがそのとき、最後のときだ。

彼に贈り物ができる機会はもうないだろう。これ以上の贈り物はありえない。なぜなら、この贈り物は、彼の未来の旅をすっかり変えうるからだ。」

(Osho 『The Transmission of the Lamp』)


*音楽、光、笑い


[Oshoは、死が間近な父親がいる質問者に応え、次のように語りました]

「彼が瞑想的に死ぬのを助けなさい。瞑想は、生と死の架け橋なのだ。だから彼のところへ行き、静かになるのを助けてあげなさい。

音楽をかけるといいークラシック音楽は、とても助けになるだろう。ーそして彼にちょっと音楽を聴いてみて、と言うがいい。ただ呼吸を見守るように、くつろいで、死と戦わないように、と言ってごらん。というのも、死もまた神聖なのだからね。

彼にくつろぐようにと言ってごらん。死が彼を掴むにまかせるように、死を招くように、と言ってごらん。死を敵ではなく、友だと思うように、と。

彼のそばで、できるかぎり幸せでいることだ。それが、死にゆく人にさようならを言う唯一の方法なのだ。彼には少し光が必要だ。彼は長い旅に出ようとしている

ー 人々が祝いながら別れを告げることを必要としている。そこに音楽があるようにしてごらん。光が、笑いがあるようにしてごらん。歌を歌い、愛に満ち、彼が、別の種類の生へと移行していくのを感じる助けをすることだ

ー 死は、扉にすぎないのだ。古い衣服が脱ぎ捨てられるだけだ。彼はより良い衣服を手に入れるだろう。もし彼が笑って逝くことができれば、あなたはほんとうに彼を助けたのだ。彼のそばにいて、どんな形であれ、あなたにできるやり方で彼を助けなさい。

(Osho『Don't look before you leap』)


*愛に満ちている


[Oshoは、重病の母親といると話す女性に、次のように言いました]

「こうした瞬間は、とてつもない啓示になりうる。だから愛に満ちていなさい!

私たちの持てるすべては愛なのだ。他のものはすべて、取るに足りない。というのも、他のものはすべて、外側のものだからだ。

愛だけが内側からやって来る。その他のものはすべて ー 金や物や贈り物を与えることはできるが… 私たちは、そうしたものを携えてきたわけではない。それらは、ここで集めたものだ。

私たちは裸で、しかし愛で満ち満ちてやって来る。私たちは、それ以外にはまったく空っぽで来るが、愛に満ち満ちて、愛にあふれてやって来るのだ。

だから私たちが愛を与えるとき、それこそがほんとうに与えることだ。それこそが贈り物、本物の贈り物なのだ。そしてそれを与えられるのは、死がそこに立っているときだけだ。だから、けっして機会を逃さないようにしなさい。

死は大いなる機会だ。死はあなたを、あなたの愛の源泉へと投げ返す。

だから彼女のそばにいて、あなたの愛のエネルギーを降り注いでごらん。もし彼女が死ぬならば、大いなる愛のスペースの中で死ぬことになる。もし彼女が生き延びれば、新しい存在として生き延びる。どちらにしても完璧にいいことだ。

死は重要ではないー重要なのは唯一、愛だけだ。

だから、愛に満ちてありなさい。そして愛があるとき、死は存在しない。誰が死のことなどかまう? 人は笑いながら死ぬこともできるのだ! 愛されているとわかっていたら、人は大いなる祝祭とともに死と出会うことができる。」

(Osho 『The Tongue Tip Taste of Tao』)


*セレブレーション(祝祭)


「もしあなたが死を祝祭の瞬間に変容できたら、あなたは友人を、父親や母親を、兄弟を、妻や夫を助けたことになる。あなたは存在の中で、もっとも大きな贈り物を彼らに与えたのだ。」

(Osho 『The Razor's Edge』)




「OSHOバルド」瞑想

(App のダウンロード)
https://apple.co/3riJbRC

「OSHOバルド」は、ガイド瞑想のプロセスの録音と、この瞑想の文脈と背景を説明するテキストを備えた瞑想アプリです。

「バルド」という用語は「移行期」を意味し、またそういうものとして、この時期は内なる変容の可能性の高まりを提供しています。元の『バルド・トドル』は死にゆく移行を支援するためにチベットで使用された古代の方法でした。

Oshoは、意識的にまた祝祭の精神で死ぬことを願う人々をサポートする、新しい、より現代的なバージョンが作られることを求めていました。

「OSHOバルド」は、私たちがリラックスし、日常生活の中でより多くの気づきと喜びを知るのに役立つ定期的な瞑想として使用できます。それはまた人生の最高潮に備えるものであり、私たちが遭遇することになる手放すという最大の経験、つまり人生そのものを手放す体験の準備でもあります。

「OSHOバルド」は、広く認識されるようになった終末期のプロセスへの新しいアプローチの必要性に対する、意味深くまた重要な応答です。いかなる宗教的または文化的信念にもとらわれず、私たちの内なる世界の奥深くに移動した体験に根ざしています。「OSHOバルド」の現世的で経験に基づいた基盤は、必ずしもいかなる宗教とも関係がなく、死ぬときに確立された宗教に支援を求めない多くの人々にとって価値あるものにしています。

プロセスは45分の長さで、曲と組み合わされています。男性と女性の声が、聴き手を、リラックスした内面の覚醒状態を通じて、優しく内なる光と喜びの中へと導きます。

推薦図書:「死についての41の答え」



■詳細・ご購入はこちら



「OSHOバルド」は誰のためのものか?


「OSHOバルド」は誰でも使用できます。宗教的、精神的所属を問いません。以下の人たちのためのものです:

* 意識的に生き、意識的に死にたい人なら誰でも
* くつろいでいながら、今ここに臨在しながら、油断なくいたい人なら誰でも
* 生きることや死ぬことに恐れを感じている人なら誰でも
* すでに瞑想をよく知っている人、および瞑想の方法を学びたい人
* 病人や死にゆく人を介護している人

「目撃することはあなたの本質。本質そのものだ。
 瞑想のなかで、あなたが目撃しているとき、あなたは自分ではそれと知らずに、無意識を一掃している。あなたの存在全体が意識に満たされる瞬間が来る。
これが目撃することだ。

 人生がそこにあったとき、あなたは人生を目撃した。死は新しいものではない:
死は一つの対象にすぎない。まさに生が一つの対象だったように。もしあなたが目撃する方法を学んだら、恐れるという問題はなくなる。あなたは自分の死の中でも目撃者になることだろう」Osho


「OSHOバルド」


バルドとは何か? - そしてなぜこの新しい形なのか?


2000年以上前に、チベットの仏教徒は、死んで生まれ変わるというある実践を生み出しました。この中心となるのが『バルド・トドル』──聞くことによって中有(バルド)の状態の中で解脱する(別名『チベット死者の書』)──と呼ばれる経典です。「バルド」という用語は「移行期」を意味し、またそういうものとして、内なる変容の可能性が高まった時期でもあります。瞑想は、この「中間状態」に意識的に入り、そうすることで執着から自由になる方法として使用されます。伝統的に、『バルド・トドル』はチベットのラマ僧によって、人が死にかけているときから、さらにはその死後にかけて、その人に読み聞かせられました。そこには私たちの聴く能力が肉体の死後もしばらく継続するという理解があります。それは、意識がいったん身体を離れると、解放か再誕生かが決まるポイントに至るまで、意識は様々な段階に入るというチベット仏教の教えを通して聴き手を導くものです。

「学ぶべき最大のことは、どんなもににもしがみつかないことだ。あなたの愛にも、あなたの喜びにも。あなたの身体にも健康にも。もし手に入るがあるなら、それを楽しみなさい。

それが消えるときは、感謝をもって消えるにまかせなさい。これまであったすべてのことに感謝し、どんな不満ももたずに。あなたは生と死の両方の、存在と非存在の両方の最大の喜びを知ることだろう。」Osho

Oshoは、『バルド・トドル』を世界へのもっとも価値あるチベットの寄与として賞賛します。しかしながら、彼はまた、『バルド』のより現代的バージョン、またはそのようなプロセスが必要であるとも言います。

『バルド・トドル』が作られたのは特定の時代と文化と宗教のためでした。それは日常生活に瞑想を実践することが定着していた人々のために作られました。Oshoのビジョンは、瞑想に不慣れな人々だけでなく、現代の瞑想者、さらには将来の瞑想者までの多様性を包括するグローバルなものです。これは「OSHOバルド」のテキストにも反映されており、どんな文化的また宗教的言及をも含まない、たやすく理解できる提案を提供しています。

この新しいバルドをデザインするに際して、私たちは一人ひとりのユニークな生と死の経験を認めています。ですから、私たちは死の瞬間を超えた時間のために特定の方向性を提供するのではなく、次の発言で概説されているOshoのアプローチを使用することを選択しました。

「人は新たな別の冒険、未知なる冒険に移りつつある。私は死後に何が起こるかについてはどんな考えも与えない。なぜならそれは絶対に間違っており、破壊的だからだ。それはあたかもある映画が気に入って、その映画のストーリーを全部あなたに話してから、「君にチケットを持ってきたから、見に行きなよ!」と言うようなものだ。それではすべてぶち壊しだ。あなたがみにいくことに何の意味がある?

私は人々にチケットは渡すが、何が起こるかは言わない。それは、彼らが自分で発見しなければならない。」Osho


Oshoのビジョンは、瞑想の安らぎと沈黙に、喜びと笑いの次元を加えるという点でユニークです。生と死は一つのプロセスの部分として受け容れられます。人生の中で受け容れて喜ぶとき、私たちは死においても受け容れて祝うことができます。「OSHOバルド」は、死を人生の最高潮と見なし、私たちが身体とマインドの制約から解放されたときに実現できるエクスタシーを認めています。

「もしあなたが死を受け容れ、歓迎し、そこに不満がなかったら。むしろあなたは幸せで、その瞬間が来たこと祝っているだろう。『今度は私はこの身体から飛び出せる。身体は制限だ…』と。

「もしあなたが死を歓迎するなら、もし死がそのようなお祝い、エクスタシーであるなら、それが感謝の祈りであるなら、それならあなたは無意識になる必要がない。それが感謝の祈りなら、その瞬間、あなたは完全に意識的になる。」Osho

「OSHOバルド」の恩恵を受けるために、あなたは死の最期の瞬間を待つ必要はありません。このプロセスを定期的に実践することで、あなたの人生にこの自由を生み出し、同時に死の恐れを追い払うことができます。

「OSHOバルド」は瞑想であり、私たちが瞑想に移行したときに起こる形而上学的死や「手放し」は、多くの点で肉体的な死に似ています。瞑想とは、死が実際に起こる前に、死ぬプロセスをリハーサルする方法です。ですからもっと気楽に実践できます。
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